女たちの戦争と平和資料館」(wam)は、天皇の戦争責任・植民地支配責任を問い続けています。

今年の建国記念日は、昨年から開催されている「wamセミナー 天皇制を考える(13)」を聴講したので資料をもとに要約してみました。

この第13回は、「日本の社会主義や共産主義者がどう天皇制に向き合い、向き合わなかったのかを、戦中に生きた人の言葉や行動に焦点を当てながら、丁寧に記録・分析する研究を重ねてきた伊藤晃さんをゲストに迎えたとのこと。
ご笑覧ください。

なお、wamは、2000年に東京で開催された「女性国際戦犯法廷」から20年を経て、2020年9月から天皇制由来の「祝日」のうち4日間を「祝わない」ためにも開館しています。

*文中の「私」とは伊藤氏ご本人を指します。

1 私にとっての天皇問題

(1)60年代における天皇制について
歴史学を専攻していた学生の私にとって、天皇制は大問題だった。
このときの天皇制とは、日本の「古い政治や社会構造の根底にある古いもの」としての天皇制を想定している。

しかし、日本社会の急速な変動期、つまり高度成長期だった1960年代、この”歴史学の常識”に疑問をもった。
私の根本問題、天皇制は近代日本全体にとって、ただ古いものなのか、古い形をとってはいるが、むしろ日本近代化の推進力だったのではないかと考えた。

なぜならば、一般的に国民は天皇制=権力と感じてなく、古いものではないと感じていた。
また、共産党の根元は「天皇制を打倒する」運動だが、一般の国民から相手にされず、失敗した。
それはなぜか?が私の研究の対象になった。

(2)70年代での研究
私は研究を進め、やがて近代日本の社会運動史、社会主義運動史に集中した。
天皇制が推進する近代日本をさらに批判する運動にとって、天皇制は大きな障害である。

しかし、反天皇制運動は終始失敗した。
それはなぜか。

戦前の運動敗北の経験を突き合わせる意図で学者の団体「運動史研究会」を77〜86年運営し、私は事務担当者になった。

そこでは、20年代に活動した人たちの聞き取り調査を開始、多数の戦前の運動経験者と巡り合った。

この人たちとの一体感を通じて、戦前・戦後の運動、戦前・戦後の天皇制の連続性を考え始め、両時期を通じるものは天皇の「国民への内在性」「国民の天皇」の性格であると考えた。

天皇制については、天皇を支持する国民との関係を考えなければ、分からないのではないかと考えたのである。

2 かつての天皇の「国民への内在」

(1)敗戦までの近代天皇制は強大な専制権力機構の頂点だった

と同時に、国家に国民の内面をつなげる大きな役割も担っていた。

権力的な強制による天皇尊崇の押し付けと同時に近代へ向けての国民の教化・啓蒙、権力権威に対して受動的な国民を作った。

(2)敗戦後、国民内面への働きかけ機能は変化し、後退した

「国民への内在性」は動揺し、多面化した。

重苦しさ、反感、同情、軽蔑感、親しみや歓迎、この多面性が込められた呼称として「天チャン」という渾名さえあった。

(3)60年代、戦後世代にとって天皇の重苦しさがなくなった

「国民への内在性」は希薄になった。
この希薄化は、国民のあり方、ものの考え方の変化に伴うもの。

明仁皇太子は、この希薄化を見ながら天皇就任へ向けて自己形成した。
そこには「戦後の新しい国民に天皇の内在性を再建するにはどうしたらいいか」という問題があった。

3 「戦後国民」というものについて

天皇が「内在性」を回復すべき「戦後国民」とはどういうものであったか

(1)国民は、敗戦時、第日本帝国憲法廃棄運動を起こさず、新憲法の創設勢力にもなれなかった。

国民は、単に受動的に敗戦を迎え、民主化を迎え、「主権者」となった。

日本国民には、かつての国民のあり方を自己批判することの弱さがある。
国家によって作られた一体性であり、権威への屈従性、排外主義の残存性があった。

一方では、専制権力への反感、厭戦の気分は強く、生活の困窮の中で、ともかく口を開き行動する。

ただし、その行動の強さは、抑圧、困窮への反発としての強さ、自己変革、民主主義的主体への自己形成も徐々に進めた。

「自らの権利は自ら立って取る」ことが民主主義の発生となった。

憲法の解釈と実現形態をめぐる支配集団と対抗したが、ただし、多くの面で支配集団の先制であった。

この多面性、中途半端さ、不徹底な平和と民主主義意識が、戦後国民の姿である。
天皇に対する多面性もこの現れである。

(2)支配集団は、戦後国民の戦前的なもの=権力抑圧と戦争への反感の強さを無視できなくなり、進行する経済・社会の変化の中で、不徹底な平和と民主主義意識が微妙に内容変化し、組み換えられるのをよりどころに、基本国策への国民の同意を標的とした。

基本国策とは、
イ)日米同盟の形で追求されていた「自由主義世界防衛」への貢献の増進
ロ)反映する世界資本主義に有力メンバーとして参入するための国内体制作り
1960〜70年代に、この国策に沿う方向で国民の「平和と民主主義」意識は組み替えられていった。

経済が飛躍し、生活が豊かになる中で「自らの権利を自ら立って取る」民主主義より、経済成長と国家の施策に生活向上の夢を委ねる感覚を助長させた。

労使協調、社会的妥協、国家との和解、親和性回復の傾向、憲法の実現形態の微妙な変化(すなわち、イ)国民主権、ロ)人権、ハ)平和、ニ)平等、ホ)個人)へと導いた。

こうして、古く遅れていると見られていた日本資本主義は進歩し、豊かさという価値意識で人々の内面を深くとらえ、むしろ資本主義批判思想を追い越した。

国民的自己意識の変化が起こり、アメリカ由来の「近代化論」の働き、すなわち「日本社会は西欧先進国と同型の社会者国家を自ら作る能力を持っていた。この”民族の能力”はアジア社会近代化のモデルとして、また自由主義世界の有力な一員として日本が働く条件である」という外的評価は、国民的誇りを回復させた。

1980年前後、こうした日本人の自信を通り越した傲慢で無責任な自己意識は、”Japan as No.1"という書籍タイトルにも表現されている。

4 明仁天皇はこの新しい国民にどう「内在」しようとしたか

(1)1989年、天皇就任の頃、明仁天皇は「新しい国民」を見出した。

国民に国家との親和性、妥協性をさらに強めるためにはどうしたら良いかを考えた結果、このために働くことが明仁天皇の「国民への内在」だった。

イ)国民に残存する平和意識を、自由主義世界防衛への貢献に結びつけること
ロ)経済成長の結果としての社会的亀裂を癒すこと
ハ)国民の「心の一体」を回復するという形で経済政策の矛盾に対応すること
これらのことで明仁天皇は積極的に行動し、成功した。

明仁天皇は、天皇・国民一体の再建を果たし、「国民の心への内在」に自信を得た。

これは、就任時の言葉「ここで作り出した国民との関係を次代以降の天皇は継承してほしい」に現れている。

(2)国民の側も明仁天皇時代に、ある天皇像をもち、そこから彼の退位声明に好意を持った。

多くの人が、安倍政権と明仁天皇とのズレをさえ感じ取った。
安倍晋三にとっては、60〜70年代を経て、国家との親和性の方向へ組み替えられた戦後民主主義さえ、不満だった。

自由主義世界防衛への貢献の増進のためにも、社会・人間・労働を一層壊していかねばならない経済政策にも妨げになる民主主義式は解体しなければならない、これが明文改憲の意図である。

これに対して、明仁天皇は組み替えられた戦後民主主義の立場から、いくらか反発したように見えた。
”進歩性””リベラル”知識人たちにはそう感じ取って明仁天皇に好意を持った人が多かった。

5 徳仁天皇のこれからと天皇制の将来

(1)多くの国民が特に悪いものと思っていない天皇制がなくなるとすれば、それは「天皇・国民一体」の相手方、現在の国民意識が変わるときである。

天皇の国民意識への「内在性」が再び希薄となり、天皇が無用物化するとき、すなわち国民がそのまとまり(統合)の姿を天皇に表現(象徴)してもらう必要がなくなるとき、あるいは国家によって作られた国民一体に、自主的な共同社会形式の方向で別の一体性を対置するときである。

(2)以上のことが「天皇制がなくなる」方へ進行する条件となるべきであり、まさにいま徳仁天皇が置かれている状況である。

「彼は父親が自信を持っている国民の心への”内在性”を引き継げるか」に関しては、客観的に困難な状況だといえる。

いま彼は国民をどういう国策に媒介していけばいいのか。
国民社会の一体構造は一層崩れ、社会・人間・労働の破壊の中で、天皇が介在すべき、国民一体の根拠は動揺している。

今日の日本資本主義の一層の発展は、国民の誇りのもととなる、国家社会の輝きを増すであろうか。

国際的な多極化、G7の地位低下、自由主義世界防衛への貢献という国家目標は混迷している。

集団安保は「日本人の平和」に対して戦争を引き寄せるのではないか。

今後は、全世界的な人口の流動化の中で、日本も移民時代に入っていく。
これが日本の国民構成や「国民文化」をかきまわすなら、天皇が介在しようとする国民一体の根拠は揺らぐだろう。

100年単位で考えるならば、ここには東アジア、東南アジアを含む新しい文化世界の形成への日本人の参加という見通しも立つだろう。

これは日本人にとって、平安時代以来、千数百年ぶりの経験となろう。
われわれはそこへ向かっていく流れに棹差すことを考えたい。

以上