自分が住む街の歴史をどれほど知っているだろうか。

そう思ったのは、この2月でした。

 

アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の 渡辺美奈さんから、

地元北九州市にまつわる 「八幡製鉄の裏の遊廓にも兵隊は来ていた」という、

そこに入れられた被差別部落の女性の証言を得ていた話を伺い、

大変驚いたことをブログ(http://ow.ly/qpDb30l4bXX)に書きました。

 

そこから早や4ヶ月が過ぎてしまいましたが、 ようやく件の街で聞き歩きができました。

 

まずは、地元でもよく知られていた白川町の手前に位置する、

蕎麦屋で話を聞いてみようと思いました。

 

というのも、幾度か入ったことのある店内には 昭和の活動写真の時代らしき写真が、

その時代から続くようなメニューに混じって あちこちに飾られているからでした。

 

蕎麦屋は廃れた町にあってそれなりに繁盛しているようです。

職人気質のような店主に食後の世間話の一つとして伺ったみたのですが、

ちょうど客足が切れたところだったので、 思い出すように昔語りをしてくださいました。

 

「白川町は昔、色街だったんですよね」と切り出し、

つらつらと話してくださったことを箇条書きにします。

 

・蕎麦屋がある通りから峰へ向かって5分ほどで着く、

白川町という古い町に遊郭が軒を連ねていたことを覚えている。

 

・7〜8軒はあった遊郭にも1等、2等、3等と格付けがあり、

坂を登るほど遊郭の格が上がったようだ。

 

・3等の遊郭の1階は今でいう居酒屋、2階には布団が敷いてあったらしい。

 

・子供は本通りから奥に位置する「白川町には近寄っちゃいけないよ」と

大人から言われていた。

 

・蕎麦屋の前の、今は「(竹久)夢二広場」として整地されているあたりに、

昔は人力車の寄せ場があり、お金持ちに見られたい人が徒歩で数分の白川町へ、

わざわざ人力車に乗って通っていたらしい。

 

・ただし、遊郭だった建物は今はもう壊されてなく、

その頃のことを覚えている人も(亡くなるなどで)少なく、

遊郭から赤線、その後廃止となって建物は次々と建て替わった。

 

・残念ながら、白川町という小さな町の歴史を記した資料は散逸して見当たらない。

 

蕎麦屋が教えてくれた、昔の話を伺えそうな餅屋はあいにく休みだったので、

後日行ってみました。

 

しかし、来年古希という店主は、私たちの上の世代が遊びに行っていたと話す程度で、

詳しいことはわからないとのこと。

 

また、色街に出入りしていたと思われる布団屋は、 数年前に若奥さんが亡くなった後、

店仕舞いしたとのことで、 確かに店は廃墟のようでした。

 

そのような昔をご存知の方はほとんど亡くなっていると、

餅屋の主人は懐かしそうに話していました。

 

ところで、白川町は細い路地も多い坂の一帯なので、

袋小路などはそれらしき感じがしないではありませんが確証はありません。

 

昭和30〜40年代の高度経済成長期に八幡製鐵所の社宅などに建て替わったり、

さらにはマンションや老人ホーム、駐車場に代替わりしているようです。

 

唯一、遊郭の門柱だったのではないかと思わせるものが 駐車場の石垣そばに残っていたので撮ってきました。

 

shirakawamachi

 

昭和と思しき石垣はまだ至る所に残っていますが、

一見して遊郭とわかるようなものはこの他は見当たりませんでした。

 

蕎麦屋の近く、ほんの少し高台にあった八幡製鐵所の本事務所は移築され、

跡地に建った「北九州八幡ロイヤルホテル」は開業24年目のこの4月、

「アクティブリゾーツ福岡八幡」へと名称変更しています。

 

そこから5分ほど歩けば白川町の遊郭が建ち並んだあたりへ着きます。

蕎麦屋は本事務所と辻違いの角地です。

 

edamitsuhonmachi

 

soba-ya

 

蕎麦屋を背にして県道を挟んだ向かいに人力車の寄せ場があったそうですが、

そこは平成に入って竹久夢二を偲んだ広場となりました。

夢二は少しの間、枝光近辺で生活したことがあったそうです。

 

yumeji

 

【参考】独特の美人画で著名な竹久夢二。

一時、八幡製鉄所に勤務し、 枝光に住んでいたことを記念して、

1978年11月、夢二作詞「宵待草」の一節 「宵待草のやるせなさ」

と刻まれた歌碑が諏訪一丁目公園に建立され、 その日を記念して

毎年「夢二まつり」が開かれています。

(北九州市HPより)

 

夢二は有名になって歌や美人画とともに、記録や記憶に残っています。

 

しかし、慰安婦は言わずもがな。 街に住む人にとっては知られたくない記憶なのかもしれません。

でも、それでいいとは思えません。

博物館などではわからない、隠(さ)れた歴史を書き残しておかねばと、 つくづく思います。

 

自分が住む街に、昔、慰安婦たちが働いていたという事実について、

好む好まないではなく、知っておかねばならない。

 

そして、二度と戦争がない、平和な世界を目指していかねばならない。

子どもたちのためにも、自分たちのためにも。