今年12月16日、「女たちの戦争と平和資料館」(wam)で開催された「松井やよりの仕事をふりかえる〜アジア、世界、日本の責任」と題したwam de cafe シリーズ第5弾の講座を拝聴しました。
ゲストは松井やよりさんと旧知の仲だった山口明子さんと武藤一羊さん。
いずれも1930年代前半の戦中派ですが、3時間を越える長時間でも失礼ながらその辺の若者よりも明朗快活に、つい昨日のことのように松井さんについて語り、現代社会の問題に切り込んでいらっしゃいました。
以下、メモ程度ですがご笑覧ください。
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【松井やよりさんの略歴】
1934年 京都生まれ。父は高名な牧師。
1941年 小学校入学。アジア太平洋戦争が始まる。
1946年 疎開先から、東京・赤坂霊南坂教会に戻る。
1951年 重症の肺結核・結核性腹膜炎を発症し、絶対安静の療養生活を送る。
1955年 大学受験検定試験に合格し、東京外語大学英米科に入学。
1957年 大学3年生のとき、日米交換留学計画に応募、ミネソタ大学に留学。
1958年 留学終了後を前にアメリカ南部からヨーロッパへ渡り、その後フランスのソルボンヌ大学に入学。
1961年 朝日新聞社入社。東京社会部、西部支局、徒長クラブ、厚生省記者クラブなど在籍。
1970年 「ウルフの会」スタート(74年解散)。各国で環境、市民運動、ウーマンリブの現状を取材。
1973年 「キーセン観光に反対する女たちの会」スタート
1974年 早稲田奉仕園主催「足で歩く東南アジアセミナー」に参加、主に東南アジア各国を回る。
1977年 「アジアの女たちの会」を仲間と設立。
1978年 立川支局長になる。
1980年 朝日新聞の編集委員(東京)就任。マニラの観光問題国際会議に参加、取材。
1981年 アジア総局員としてシンガポール駐在、18か国を取材。
1986年 欧州7カ国でnGOや市民運動を取材。
1989年 ピープルズプラン21に実行委員として参加。
1994年 「女性の人権アジア法廷」の開催に尽力。朝日新聞を定年退職。
1994年 「JFCを支えるネットワーク」を設立、代表になる。「第1回東アジア女性フォーラム」開催に尽力。
1995年 「日本のODAとアジア女性国際会議」を東京で開催。「アジア女性資料センター」を設立、代表になる。アジアで初めての国連世界女性会議を北京で開催。
1997年 「戦争と女性への暴力国際会議」を東京で開催。
1998年 「アジア連帯会議」で「女性国際戦犯法廷」を提案。VAWW-NETを設立、代表になる。
2000年 「日本軍政奴隷制を裁く 女性国際戦犯法廷」を東京で開催。
2001年 NHK番組改竄事件でVAWW-NETジャパンとともに現行としてNHKを提訴。ハーグで女性国際戦犯法廷の最終判決が下される。
2002年 アフガニスタン訪問中に体調を崩し、逝去。享年68歳。
【山口明子さん】
1935年生まれ。東京女子大学文学部卒業。キリスト新聞編集局を経て1966〜90年日本キリスト教協議会事務局に勤務。1990年代はじめから、台湾の元「慰安婦」裁判、VAWW-NETジャパン、女性国際戦犯法廷など、日本軍「慰安婦」問題解決を目指す活動に関わってきた。現在、沖縄の辺野古きち建設反対の座り込みも続けている。
【武藤一羊さん】
1931年生まれ。東京大学文学部中退。初期原水禁運動の専従、ジャパンプレス社勤務などを経て、1960年代にはベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)運動に参加。1969年英文雑誌『AMPO』創刊、1973年「アジア太平洋資料センター」(PARC)設立、96年まで代表。民衆による国際プログラム「ピープルズプラン21」を推進。1982〜2000年、ニューヨーク州立大学社会学部教員。
山口明子さんの談話
(山口さんは)キリスト新聞編集局を経て、日本キリスト教協議会事務局に勤めていた50年前の1973年、松井やよりさんに出会った。
その存在は、学生時代に松井さんの妹と友人だったので知っていた。
・やより(取依)さんの名前の由来と生い立ち
「ヤソ=耶蘇」イエスキリストから取った名前で、権力と闘ったキリストを考えると、彼女の在り方を象徴している。
松井さんは朝日新聞における女性記者の先駆者だった。
・1973年の観光買春反対運動
韓国からの情報を得て「キーセン観光に反対する女たちの会」を作った。
フェミニズム運動が盛んになっていた頃で、松井さんが朝日新聞に記事を書いたから韓国の観光売春問題が知れ渡った。
松井さんは「人と人を結び合わせた」人だった。
・1977年、「アジアの女たちの会」結成
(山口さんたちは)隣の韓国についてさえ知らないということを思い知り、アジアへの視野を持つようになった。
この団体を結成したことによって、フェミニズムにしか関心がなかった人たちに韓国と日本だけの問題ではなく、フィリピンなどアジア各国の問題へと視野を広げることができた。
当時はSNSも大学での講義にもなかったのでアジアについての情報が「アジアの女たちの会」に入りにくく、キリスト教会はアジア問題の貴重な情報源であり窓口だった。
キリスト教は国内で唯一世界的なつながりを持っていた時代だった。
労働問題関係者よりも広く海外と細いつながりを持っていたキリスト教会だけが、他の世界各国に日本の情報を知らせようとしていた。
70年代当時、女性問題については欧米からの資料しかなくて、少ない資料からアジアの女性のフェミニズムは生まれた。
私たちは、松井さんを中心に「アジアの女たちの会」を作った。
これが松井さんの一つの功績。
・80年代、松井さんは世界各国を取材
当時、中国では取材ができなかったけど、彼女は新聞記者だったので特派員として行けた。
さらに他の人たちが欧米へ行く中、シンガポールへ行き、アジアの生活者の目線で目新しいことを書いた。
私を含め、若い人たちは観光買春について調べて戦時性暴力について気づいていたけど、何をすればいいのか分からなかった。
私たちは自分が当事者ならば隠れていると思って何もできなかった。
松井さんの行動を知って、被害者が恥ずかしいのではなく、私たちの方が恥ずかしいと思った。
・90年代、海外から帰ってきた松井さんが奔走
松井さんは朝日新聞を94年の定年まで勤めた最初の女性だった。
これ以降、松井さんとともに闘った。
95年、ソウルで「女性国際戦犯法廷」を開いた。
当時、誰もわからなかった「民衆法廷」と「模擬裁判」の違いを松井さんは最初から十分知ってた。
刑事裁判は負け続け、民事裁判は開けない頃だった。
「負ける裁判の意義」を見出そうとしていた最中、松井さんは日本では負けるのだから「韓国で民衆裁判を」と開いた。
「天皇有罪」判決がでた瞬間の喜びは忘れられない。
・聖書の「小さい者たち」とは「小さくさせられた者たち」
改竄事件に怒って起こしたNHK裁判の出発点は、報道の自由に関心がある人たちに問題意識を持ってもらうことだった。
松井さんは判決を見届けずに亡くなったが、裁判の権利は財産権になるから権利を相続手続きをした。
最期まで責任を持って裁判を闘ったということ。
「同情」は、あくまでも客体として見ている態度。
私たちが求めているのは同情ではない「怒り」。
でも今や怒ることも忘れている人が多い。
「怒り」は客観的に見ることであり、自分ごとに考えること。
私たちは自分ごととして捉えて考えると怒りが湧いてくる。
「知らぬということの責任」を怒りを持って書き、「不条理に対して怒ること」が、松井さんが私たちへ遺した遺産だと思う。
武藤一羊さんの談話
松井さんを代弁する「怒り」は本質を言い当てている。
彼女の中に「正義の基準」がハッキリあった。
「怒り」は私憤と関連づけられることが多いが、私は彼女の「正義と怒り」について考えたことがある。
10年前、彼女の没後10周年に京都で学会が開催された。
私は満州事変の年に生まれたが、彼女は「戦後の歴史を生きてきた人」ということが大事な視点だ。
彼女はヤソ=基督教会信者だから、幼少だった戦時中、疎開先の農村で抑圧され虐められた過去があり、幼い頃から社会問題に意識があったようだ。
彼女の父は、平和活動家として高名な方だった。
彼女自身は若くて熱意に満ちた女性だったが、50年代の自分が学生だった頃、彼女は結核で苦難の時代を過ごした。
彼女は高校を出ず、大検で大学に入った。
有名な牧師の娘であると同時に、キリスト教と関係ないところで政治意識が作られたと考える。
反戦、平和のスタンスから行動しており、一元的ではない意識形成をしていたと思う。
80年代当時、民主主義は大きな柱だが、自由主義とマルクス主義が思想界を風靡していた。
その頃、彼女には「封建的なものが悪い!」と正面切って言えた考えが50年代には出来上がっていたように思う。
時代を説明すると、60年代の後半から、規制の価値観は違うと価値観を支えるもの、ラジカルな思想の機運が起こった。
アジア、第三世界、当時の日本を相対化する視点が普及した。
相当な勢力だった。
70年代の激動期、全共闘の時代が自滅した後、リブ運動が出てきて、60年安保の頃とは違う基盤ができた。
70年、第1回女性会議が契機になった。
73年から馬力のある女性たちが会議を引っ張って、77年「アジア女性の会」が作られた。
が、その中心は松井さんではなかった。
私は、松井さんの名前は新聞から知っていたが、彼女がシンガポールから帰国して行動をともにした。
当時、キリスト教が多くの役割を果たした。
クリスチャンが社会活動を行うために作った団体で、宗教とは関係ない活動をした。
そこを基盤にしたグループのネットワークが出来上がった。
75年、「ピープルズカンファレンス」が開催された。
アジアは独裁勢力ばかりだったから、合法的にチャンネルを作らねばならないので、クリスチャンとしての立ち位置は重要だった。
松井さんはその中で、存在感のある一人だった。
活動家としての在り方は、下積みのひどい人たちのところへ出かけて取材するような、危険を顧みない行動だった。
同情ではなく、彼女は一体化することができる人として朝日新聞に書いた。
それだけではなく、彼女は運動を作った。
彼女は「取材テーマをひとつ作ると、ひとつNGOを作る」とよく言われた。
ジャーナリストとは、そういうことをせず、書くことで終わるものだが。
彼女は、そういう意味でジャーナリストという枠に収まらなかった人だった。
その側面は、突然、非行に走る行動だった。
最大の飛躍は、「民衆法廷」だった。
慰安婦問題にはたくさんの人が関わってきたけど、彼女はパッと閃いて動いた。
国際刑事裁判の有名な人たちを連れてきた、その飛躍は運動に大きく貢献している。
彼女なしにはできなかったと僕は思う。
二人の対談
武藤さん「松井さんは垣根を越える人」
朝日新聞の記者だったのでお金持ちだったから、特権があるので取材でどこへもいけた。
松井やよりならではの特権を下積みの人たちのために使ったが、そのことをまったく気にしなかった。
彼女の本質はクリスチャン。
誰とでも公平に対等に付き合い取材する。
葬儀で確信した。
仕事の肩書きはあるので普段は隠れて見えなかったが、父親の影響も大きかった。
クリスチャンとしての本質、キリスト教会が松井さんの支えになっている。
時代に必要なことをやり抜き駆け抜けた人生だった。
松井さんは記者として垣根を乗り越えて繋いだ。
男の”運動”に殴り込みをかけることはなかった。
群れないで、男主体の運動に変えようとせず、女性は女性で固まる運動もしない。
「男を変えなければ」と言って新聞に書いた。
フェミニズムは女だけの運動ではなく、境界を越えていき、男性を糾弾するための運動ではないとした。
男の思想によるものではなく、男たちを変える姿勢を貫いた。
最良の男性を作るために。
山口さん「松井さんは人と人をつなげる人」
2002年12月亡くなったから、その後のアメリカや中東状況、安倍政権を見てない。
今日は松井さんと過ごした時代や目の前のものへの取り組み方を聞いて欲しかった。
以上