8月14日、wam(女たちの戦争と平和資料館)で『へいわってどんなこと「戦前」という日常のなかで』というイベントが開催されました。
この日は1991年、韓国の金学順さんが日本軍「慰安婦」制度の被害者として名乗り出た日です。
2012年12月に台湾で開かれた日本軍「慰安婦」問題解決アジア連帯会議で、この8月14日
は『日本軍「慰安婦」メモリアル・デー』として定められ、2013年から世界各地で様々なイベントが開かれています。
wamでは、事務局入り口の壁面には被害者写真が掲載されていて、一年内に亡くなった方には白い花を飾っています。
また、wamは訃報が届いた被害女性たちにお花を捧げる「追悼のつどい」を2017年から開いています。
今年はウクライナの侵略、元首相が殺害されるなどが発端となって、
軍隊の容認などが承認されそうな空気が漂い始めています。
今年の午後のイベントでは、絵本作家の浜田桂子さんを迎えて平和について考えました。
浜田桂子(はまだけいこ)さんの略歴は、下記のとおりです。
1947年埼玉県生まれ。主な作品に『あやちゃんのうまれたひ』『てとてとてとて』(ともに福音館書店)、『まよなかかいぎ』『どうしよう』(ともに理論社)など多数。
『へいわってどんなこと?』香港版が「2020 Hong Kong Book Prize」を受賞。
国内外の子どもたちと命と平和を考えるワークショップも行っている。
日本児童出版美術家連盟理事長、日本ペンクラブ「子どもの本」委員会委員、 日本文藝家協会会員。
日中韓平和絵本のなかで、童心社から出版されなかった日本軍「慰安婦」をテーマにした『花ばぁば』(作:クォン・ユンドク、2018年、ころから)の日本語版の出版に尽力した。
「この絵本『へいわって どんなこと 〜きっとね、へいわって こんなこと〜』が
出版された当初は優しいふんわりした印象だったが、
4年を経た今年、ウクライナの侵略や元首相の殺害など、
軍隊の容認などが承認されそうな空気が漂い始めている中で読むと、
この『へいわってどんなこと?』の内容がリアルに感じる世の中になってきた。」
と、wamの渡辺さんは浜田さんを紹介しました。
浜田さんは、まず表題の絵本を朗読した後、90分ほど話されました。
その概要をメモがわりに記します。
三ケ国間のさまざまな交流を通じてできあがった絵本を元に、
子どもたちに語るべき「平和について」一考になれば幸いです。
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『へいわって どんなこと
〜きっとね、へいわって こんなこと〜』
せんそうを しない。ばくだんなんか おとさない。
いえや まちを はかいしない。
だって、だいすきな ひとに
いつも そばにいてほしいから。おなかがすいたら だれでも ごはんがたべられる。
ともだちといっしょに べんきょうだって できる。
それからきっとね、へいわって こんなこと。
みんなのまえで だいすきなうたが うたえる。
いやなことは いやだって、
ひとりでも いけんが いえる。わるいことを してしまったときは
ごめんなさいと あやまれる。どんな かみさまを しんじても
かみさまを しんじなくても
だれかに おこられたりしない。おもいっきり あそべる。
あさまで ぐっすり ねむれる。
いのちは ひとりに ひとつ、
たったひとつの おもたい いのち。だから ぜったいに、
ころしたら いけない。
ころされたら いけない。
ぶきなんか いらない。さあ、みんなで おまつりの じゅんびだよ。
たのしみにしていた ひが やってきた。
パレードの しゅっぱーつ!へいわって ぼくが うまれて よかったと いうこと
きみが うまれて よかったって いうこと。
そしてね、きみと ぼくが ともだちに なれるって いうこと。
(以下、浜田さん談概要)
日本軍慰安婦平和メモリアルデーという記念すべき日に、
『へいわってどんなこと』という絵本が、
どういう経緯でできたかということ、どう動いているか、
自分が考えていることを話したい。
(1)「平和絵本」は何を伝えるのか?
私の子供が幼かった頃、よく絵本を読んでいたが、
当時の”平和に関する”絵本に対して疑問を持っていた。
1970年代、当時の絵本は戦争体験の悲惨さを伝えるばかりで、
”戦争が始まると平和ではない”という平和の位置づけは”消去法”の伝え方で、
「平和とは何か」と正面から伝える本はなかった。
つまり、生きる楽しさを伝える絵本はなくて、
私は”平和とはこういうことだ”と伝える本が欲しいとずっと思っていた。
当時の子どもたちは絵本を読むと、
「昔の子は大変だったね、いまじゃなくてよかったね」という感想ばかりで、
自分の日常に結びついてない印象だった。
「平和とは戦争が起きてない」ということではない。
「人権が守られてない」「差別がない」ということも平和ではない。
それを子供たちと一緒に考えれば、
人権を侵害されていく時に敏感になっていけると私は思う。
実際、「戦争をしてないから平和なのか」という質問に対して、
今の子供たちは首を傾げる。
だから、平和について、子供たちと日常の姿をはっきり考えさせる絵本が欲しいと思っていた。
(2)絵本『へいわってどんなこと?』を作る
1)三国で平和の絵本を作るということ
やがて私は絵本を作るようになったのだが、
たった一冊で平和を伝えることは難しいと思ってきた。
そういうとき、2005年から2006年にかけて、
日本の4人の絵本作家が、中国と韓国の絵本作家に対して
「平和について考える本を作らないか」と声をかけた。
それは出版社ではなく、作家だけの発想だった。
その頃は、日本が大きく右に舵を切った時代だった。
2005年、当時の首相の立場で小泉首相が靖国神社を参拝して、中国と韓国が大騒ぎになった。
2006年、安部第1次内閣のとき、憲法の両輪である教育基本法を易々と変えた。
愛国心を植え付ける、道徳を強化するなどの本心が出て、
影響や効果、策略した人にとっては現時点で影響が出ている。
慰安婦など日本にとって非常に都合の悪いことをごまかし、
隠す教科書が検定を通って行ったからだ。
それに対して、私たちは危機感を持った。
特に子どもの成長を見守る絵本作家は社会の動きに敏感な人が多い。
絵本作家は子供の成長を祈って絵本を作っているのだが、
実は日本の近現代史についてあまり知らない。
例えばアジア太平洋戦争がどのように始まったかをよくわかってない。
けれども、いまの子供たちがPCを使って一瞬のうちに
世界中の人たちと連絡を取れるようになった時代に、
これから中国や韓国、東アジアの人たちと信頼を作り、
仲良くなっていけるのかと、とっても心配になった。
そこで、平和をテーマに、中国や韓国の絵本作家に
呼びかけてみようということになり、
もし作れなかったとしても、
呼びかけたことだけでも意味があるのではないかと考えた。
そうして4人の絵本作家、田畑精一、田島征三、和歌山静子と、
わたし浜田桂子が、連名で手紙を出したのだ。
中国の絵本作家は大歓迎してくれた。
すでに私たちの先輩絵本作家たちが中国との交流を深めており、
仲間の中にそれぞれ親しい絵本作家がいたからだ。
日本の絵本がたくさん出版されていた韓国とは、
どなたとも面識がなかったのに、
チョンスザクさんという方が田島征三さんとシンポジウムに
参加することになったので、私たち4人は絵本作りを手紙とともに申し出た。
2006年6月、最初に対面した時、
チョンスンザクさんは非常に厳しい表情だった。
「表面的な平和という意味でいうなら、やる意味はない。
でも歴史を直視して踏まえておっしゃるなら意味はあるけれども」
と言われた。
そこで、手紙を渡して仲間に伝えて欲しいと別れた。
すぐに、8月、4人揃って韓国へ行った時には、
田島さんのことを尊敬していたチョンさんは、
東京で会ったときとは逆に、
私たちの本気の思いを受け止めて満面の笑みで迎えてくれた。
韓国の絵本作家たちとの最初の食事会で、
最年長の田畑さんがしたご挨拶がとても印象に残っている。
田畑さんは韓国でとても人気が高い『お尻の冒険』絵本の
原画展を何回も開催されていたが、
「一度も行ったことがなくて申し訳なかった。
しかし、”絶対に戦争はしない、したくない”という
子供たちを育てる思いで、今回は韓国へ初めて足を踏み入れた」
と田畑さんは話したから。
韓国の作家たちは、私たちをソウル近郊の、
かつての朝鮮半島が日本の植民地だった頃の、
政治犯を処刑するために大日本帝国が作った
赤煉瓦の処刑場の歴史的展示場に連れて行った。
ここから平和絵本の制作を一緒に作ろうという気持ちが表れていたと思う。
韓国の4人の作家たちは皆60年代生まれで80年代は学生という、
韓国では特別な世代だった。
当時の軍事独裁政権を民主化した世代で、活動家たちだったからだ。
”大学から民衆へ”ということで、美大から民衆の中へ出て行った世代で、
戦時中に生まれた日本の作家よりも平均年齢は20歳も若かったけど、
私たちは非常に興味深く学ぶことが多かった。
彼らは段取りをつけるのが大変うまかった。
三国の皆で会いましょうということになり、
2007年、中国の作家たちが招待してくれ、
私たちは中国の古都南京へ行った。
その直前、作家の動きを察知して
1出版社がプロジェクトを応援してくれた。
作家12名、編集者が一同に揃った。
南京の壮麗な会議室で、これから始まっていくんだという嬉しい夢のような思いだった。
ここまでたどり着けた、これから話し合っていけばいいのだという思いだった。
2007年12月、中国では必ずそういう場に政府関係者がいるので、
最初の夜の歓迎会でのご挨拶が忘れられない。
その年は1937年の南京大虐殺から70周年の節目の年であり、
「この南京で、日本の絵本作家が呼びかけた話し合いが行われ、
平和に関する絵本を作るために作家がいらして、
あのとき殺されたたくさんの子供たちへの供養にできる」と言われた。
夕食後、みんなが集まり、通訳は誰もいないのに、
言葉はわからないまま酒を飲み歌い踊って、
真面目でかしこっていた人たちが心から交流を楽しんだ。
私は笑い転げながら涙が止まらなかった。
私たちは歴史のことや改修中の虐殺記念館があることは知っていたが、
人が出会うことに大変感激していた。
国境や歴史は消えないが、直接人と人との思いが通じたときには、
そのように隔てているものは希薄になるし障害にはならない。
いま思っても宝物のような時間だった。
だからこそ、その後、絵本作りでいろんなことがあったが、
信頼を失うことなく、最後まで作家間の信頼は揺らぐことなく、
作ることができた。
いまコロナで人と人が会うことは難しくなっているが、
人が会うということは素晴らしいと思っている。
そうして、ずっと考えていた子供たちの日常で平和を考える絵本を
作ることができた。
2)平和を考える絵本づくり
ところで、絵本は、この本に限らず、
出来上がりは同じサイズで下書き本を作る。
頭の中で考えるだけではなく、このように
めくって見ることができる本を作ることが大事なこと。
限られた場面の中で、どのような場面を選ぶか、
どのような言葉を選ぶかが大事なのだ。
三国が連帯して作るので、中国や韓国の作家たちと意見を交換する。
本来、絵本作りはひたすら自分の思いを掘り続ける一人の作業であるから、
作家同士で相談するのは通常はありえない。
作り手が一番嫌なのは、
編集者から「社の編集会議にかける」と言われること。
このように絵本作家はいつもは自分の世界を大事に作るのに、
このプロジェクトではすべての作家が意見を交換しながら作ることに挑戦した。
実際に、10冊の下書き絵本を作って意見交換した。
映像を送って意見交換したり、地理的に2時間くらいの近い韓国へ
私たちは直接行って意見交換した。
非常に大きな軌跡を二つ挙げる。
戦争の3つの場面で、最初の文は、こう書いた。
#へいわって せんそうする ひこうきが とんでこないこと。
#ばくだんが そらからおちてこないこと。
#いえや まちが はかいされないこと。
これについて、韓国の作家から痛烈な意見が出された。
つまり、これはすべて受け身に言葉だという。
「”ぼく”という言葉として述べる言葉に違和感はないが、
日本の方がいう平和は、広島長崎の原爆は二度といけない、
空襲はいけない、だから戦争はいけない、だから平和が大事
という自分たちが受けた被害から発想しているから、
このように浜田さんから”受け身”の言葉が出てくる」。
浜田さんは無意識だと思うけどと言われて、
私は最初はとても腹が立った。
私が日本の戦争体験のことを十分わかっている上で、
絵本作りを呼びかけたのにと思っていたからだった。
でも、そんな厳しいことを言ってるのは
私を信頼してくれているからだと思い直した。
出会って、いろんなことを話していたので、
これを話しても浜田さんはわかってくれるのだと
韓国の作家が信頼して、あえて言ってくれていると。
感覚で知っていうことと知識で知っていることに
距離があることがわかった。
空襲というと、米軍の空襲から受けて逃げ惑う日本の民衆を思い浮かべる。
けれども、中国や韓国の人たちが逃げることは思い浮かばない。
それを突きつけられた。
また、私の”子ども感”は「巻き込まれる」立場。
でも、本来の子どもは、いつも「一緒にやる・一緒に楽しむ」。
子どもは戦争を起こさない。
ぼくたちは戦争を起こさない、
そういう立ち位置に置いたら、平和になったら戦争は起きない。
ということから「戦争をしない」に変更できる。
「ばくだんなんか おとさない」という能動的な話になる。
「いえや まちを はかいしない」という受け身から
能動的になったことによって、格段に絵本が力強くなった。
爆弾を落とす飛行機が飛んでこないという状況よりも
「戦争しない」とすることによって強い意志が宿る。
最後に「僕が生まれてよかった」という文章につながる。
これが私の一番言いたかったこと。
もう一つ。
「せんそうって ひとりぼっちにしない」場面。
最初は「だれも ひとりぼっちになんか しない」としていた。
平和を構築していくためには、連帯が大事なのだが、
仲間外れや疎外について3冊目の下書き本の際に、
田畑さんから下記を言われた。
「戦争になったら、一人ぼっちにさせてくれない。
僕は、みんなが同じ意見に染められていくのを見た。
違う意見は自分勝手とされ、
やがて弾き出して非国民というレッテルを張られる。
一人で考える、一人で立つ、というよりも
戦争中は”みんな一緒”というのが大事になる。
本当は”一人ぼっちになる”っていうのが大事なのに。」
という指摘だった。
そこで私はハッとさせられた。
”独り”を喪失したときの連帯は恐ろしい。
かつての天皇制の”熱狂”は、”一人ぼっち”にさせなかった。
そういうときの熱狂では、みんなが舞い上がってしまう。
だから、”一人になる”、”一人で立つ”声が大事になる。
だから、この場面は外した。
このように、絵本を作るとき、たくさん意見があって、
この絵本ができた。
例えば、韓国の作家が、最初のダミー本を読んで、
「あさまで ぐっすり ねむれる」という場面は、
とても素晴らしいから、
韓国版では表紙にしたいと言ってくれた。
そういう励ましもたくさんもらった。
ようやく、10年前の2011年、韓国版が発行されたとき、
韓国の方は受け入れてくれるかと訊いたら、大丈夫よと即答された。
実は、日本から絵本作りの呼びかけがあったとき、
韓国の絵本作家たちは児童文学の偉いかたや評論家や
絵本周辺の方達に相談したら、99%が反対したそうだ。
「日本から利用されてるに決まっているよ」と言われたらしい。
では、なぜ彼らが私たちの提案に乗ったかというと、
すでに出版されていた絵本の中でも、
特に田島さんの『飛びバッタ』という絵本は韓国で大変人気があったし、
私の絵本も出ていた。
そこで、いろんな反対した人たちに逐一私たちの動向を告げて、
どんどん賛成派に変えて行った。
だから、大丈夫と言ってくれたのは、その裏づけの行動があったからだった。
(3)絵本で平和を紡ぐ
出版にあたり、私は絵本が「非常
に共感を紡いでいくもの」であると思った。
まず、この絵本は2013年、北朝鮮の平壌で読まれていた。
北朝鮮で地道な交流をしていたNGOが、この絵本をテーマに、
子供たちと絵を描くようなことができないかと相談があった。
そこで、パレードの場面を北朝鮮の子供達と描くプロジェクトを行った。
絵本の中のイエロードラゴンなどと名前をつけたオブジェを描く共同制作をした。
北朝鮮では印刷が綺麗で日本のように装丁した絵本はない。
昔話の絵本が多く、印刷がズレていたりざら紙を
ホッチキスで止めるような絵本だったが、
北朝鮮の子どもたちはとても喜んでくれた。
日本の朝鮮学校の生徒も一緒に行って
小学校で朝鮮語で読んでくれた。
みんな喜び、NGOは活動をバックアプしてくれて、
何の問題もなく絵本を読めた。
本来、南の印刷物を北に持ち込むのは難しいのだが、
絵本を作った作家本人たちが持ち込むので
問題にならなかったらしく、北と南とで少し言葉は違うが
日本語で読むこと自体が珍しいことだったらしい。
平壌の子供たちは素直な感想をくれた。
例えば、「友達といつも喧嘩してしまうので、喧嘩しないようにする」
という小学校2年生など、たくさんの感想をもらった。
実は、私が「平壌へ行く」というと、みんなから心配されたが、
信頼を築いていたNGOの活動があったからこそ、北朝鮮でできた。
逆に、北朝鮮の絵本作家が日本へ来てプロジェクトを
してくれるということは考えられない。
だから、NGOによる地道な活動や交流は大切で
ものすごいことだと思った。
私たちはいろいろな本を持って行っていたので、
帰国する前に北朝鮮の小学校の校長先生に「欲しいものはどうぞ」
というと、恥ずかしそうに「全部欲しい」と言われたので、
全部置いてきた。
戦闘機1機150億円なら、1冊1500円の絵本は何冊買えるか。
絵本によって子供が笑顔になり、その周囲の先生や大人、
さらにその周囲の政府・国へと笑顔は広がる。
私はそれを体感している。
戦闘機を買うよりも、絵本は遥かに効果があると思う。
香港でも大切な出会いがあった。
2019年6月、香港の小さな出版社の経営者から連絡が入った。
当時、一国二制度を破って政治制度を強化していた
中国の統治下に入った香港では猛烈な反対運動が起こっていた。
彼女は「私たちにはとても必要な本なのだ」と、
香港の言葉に訳しながら子供たちに読んでいたらしい。
この絵本の版権が欲しい、ぜひ香港で発行したいと
すごい熱意で言われて、私は大変嬉しかった。
その年の12月のクリスマス、この香港版が出版された。
通常、絵本はハードカバーがあるが、
廉価版の薄いカバーだと買いやすいので、
このペーパーバックで出版された。
コロナが流行り出した2020年頃から、
香港ではzoomの読書会が行われて400席がすぐ埋まり、
ほとんどが小学校の先生だったらしい。
一番伝えたいと支持されたこと、子供に伝えたいことは
絵本の「嫌なことは嫌だ」という言葉だったそうで、
それが一番大事だと言いたかったらしい。
だから、戦争中ではない香港でデモを行う大人から、
どうしてもこの絵本が必要だと言われたのだった。
その後、この絵本は香港の公共放送が主催する大きな賞をもらった。
いまの香港は大変な状況に陥っているが、
この絵本は非常に読まれていると聞いている。
もはや自分の手を離れて、この絵本はいろんな活動をしていると思う。
もう一つの話。
ウクライナへロシア侵攻が始まったのが、今年2月24日。
「ウクライナ語とロシア語で出版したい、朗読の動画を配信したい」
と滋賀大学の先生が企画して、出版社と私に連絡が入ったので、すぐOKした。
ウクライナ語に翻訳したいというご本人は、すでにポーランドに逃げていたが、
ご主人がウクライナで行方不明になっているらしく、
翻訳どころではなくなったので、滋賀大学の大学生と私が
一緒に翻訳するということになった。
その後、ウクライナのドニプロ国立大学で日本語を学んでいる学生と
滋賀大学生がウクライナ語に翻訳した。
4月5日、zoomを使ったオンライン会議で、
この絵本に込めた思いを私はウクライナの学生さんたちに話した。
この絵本は過去の被害、加害、痛みを共有して未来に向けて作ったのだが、
現実に大変な状況になってる人たちがどのように感じているのか、
どう思っているのかと私は思った。
その3人の学生たちは、映像を見ただけで、
「この絵本は子供たちに希望を届けることができる。
だからウクライナ語に翻訳したい」と言った。
そこで、4月5日からオンライン上で滋賀大学の学生たちと
ウクライナの学生たちと一緒に翻訳を始めた。
5月3日から絵本を読む動画が配信されている。
当初、6月までのはずだったが、戦争が長引いているため、
9月末まで配信されている。
童心社と滋賀大学から配信されているのでぜひ見てほしい。
翻訳の作業中に一部だけ、翻訳の文章を変えたいといわれた箇所があった。
以前、韓国から指摘された「いえや まちを はかいしない」を
「はかいされない」に変更したいという意見だった。
当初、ウクライナ語とロシア語に翻訳する前に、
滋賀大学の先生はウクライナに配信することを躊躇っていた。
実際戦争が始まってしまって、自分が企画したのに、
子どもたちの心の傷口に塩を塗るのではないかと悩んでいたのだ。
私はぜひ翻訳してほしいと言った。
小さな子供たちは何か悪いことが起きると、
「自分が悪いからこんな悲しいことが起きた」とか
「自分たちが悪いから悲しいことが起きた」とか、
自分が悪いからと引き受けてしまう傾向がある。
だから、まず子どもに「あなたのせいじゃない」という思いがあり、
「ぼくが悪いことしたからと思っている子どもがいるから、
”大人が起こした戦争のせいでこんな風になっている”
と伝えるためにも翻訳してほしい」と言った。
そういう前段があり、目の前で破壊されるものを見てきた
ウクライナの学生たちだったので、この絵本の制作の経緯を話した。
そうして、さらに「あなたたちの思いの方が的確ならば、
言葉は変えていい」と伝えた。
今、当地で戦争が進んでるとき、当事者がことばを変えて構わないと思う。
その箇所の日本語の朗読は変えず、ウクライナ語は変えている。
こうして翻訳した3人は、これがきっかけで滋賀大学に留学を決意した。
7月4日に来日して、いま滋賀大学で学んでおり、
彼女たちに機会があれば会って欲しいと言われている。
「安全な日本で、日本語を学んで、京都に近い滋賀で学べるのが嬉しい」
と、地元のNHKテレビで記者会見していた。
そのうちの一人が「将来は翻訳家になりたい」と夢を話していたらしい。
私は、絵本が一人歩きしていると思った。
来日した二人の女子は、地域の複雑さを表すようにロシア語も堪能なので、
ロシア語に翻訳して8月15日配信する予定だったが、少し遅れているようだ。
(4)普遍化していく努力 世界の人たちと手をつなぐために
一緒にみんなでできることができるためには、
個々のことが普遍化される、共感が広がるということかと思っている。
それは日本だけではなく、たくさんの人たちと手を繋いでできると思っている。
その一つの例として、日中韓の共同制作として始めた
『花ばぁば』という絵本がある。
一番乗ってくれた中国の作家にとって完成できなかった本だ。
日本軍慰安婦の証言を元に唯一の韓国女性作家、
クォンさんは、これをいつか作りたいと願い続け、
憎しみと怒りで震えていたと2006年、最初に会ったとき話していた。
この本は、クォンさん自身が悩んで作った。
10冊以上の下書き本を作った。
加害、被害の苦しみを表現して将来への希望へ繋げるプロジェクトなのに、
中国や韓国の子供たちが「日本てなんて酷いことしたのと思ったら、
何にもならないから、どうしよう」と思ったらしい。
クォンさん自身の身体が震えるほどの憎しみなど
相矛盾する思いを抱えて取り組んだものだ。
その後、クォンさん自身が制作の発想を進化させていった。
個の恨みや憎しみ、怒りをいかに浄化させていくか、
どうしたら普遍的なものになるかをものすごく考えた。
だから日本兵が悪い、日本兵を告発するということではなく、
憎むべきは戦争だということに辿りついた。
そのことの一つが最初の下書き本に表れていた。
白いアオザイの女の子と、黒いアオザイの子がいる。
それを私はベトナムの人の前で読めるかと。
ベトナムはアメリカと集団的自衛権を結んでいたが、
乗り込んだ韓国兵によるその性暴力は凄まじかった。
だから、クォンさんの頭にいつもそのことがにあり、
日本兵を告発するのではなく、
クォンさんはアオザイの女性を描き加えた。
2010年、この本が発行された。
シュウ・ライオンさんというハルモニが癌を患って状況が悪かった。
その年、日本を代表して私が行って発行を約束した。
2015年、改訂版を出した。
つい先日、クォンさんから送られてきたハングルの絵本は、
ベトナムに参戦した兵隊さんが日常の生活を送っている様子があるが、
韓国の兵隊を猛々しいと言われる虎の格好で描いていた。
ふとベトナムのことを思い出し、街の中でベトナムの女性たちを思い出すという絵本。
クォンさんは、この被害を描いた2010年から11年かかって、
加害を描く絵本を作ることができた。
つまり、個の問題を普遍化することに意味があり、
慰安婦の問題は事実を検証することは大事だが、
同時に個々の問題だけではなく、
現在の性暴力につながる大きな問題として考える。
過去のことだけではなく、今につながる意味があるのではないかと思っている。
私は今年6月から7月にかけて、
日本の専修大学でジャーナリズムを学ぶ学生たちに4回授業した。
その中で、1時間を『花ばぁば』の時間にした。
なぜ、2010年、韓国で発行したのに、
日本では2018年まで出版されなかったのかという経緯と理由を話した。
なぜ8年もかかったか、
なぜ私と田島さんが奔走して出版につながったかという話。
男女半々の2年生から4年生の150名ほどに、
今日のように絵本を映して朗読した。
出席簿がわりにリアクションペーパーをぎっしり書いて提出してくれた。
私は、男子学生に性暴力への関心が高いことに非常に驚いた。
自分たちの同世代の男性とは意識が違う。
今とつながっていると捉えている気持ちが強い。
慰安婦というとネットで炎上していると言われているが、そういうことではないと感じた。
ごく一部を紹介する。
男子「性暴力は兵器。考えさせる内容だった。
試行錯誤を経たからこそ普遍的な内容なり、戦争問題に迫っていると思う」
女子「慰安婦の実情を知って、戦争や性暴力があってはいけないと強く思う」
女子「日本において加害の教育が圧倒的に弱い。現在の性暴力、戦争に反対していくことが私にできることの一つだと思う」
男子「性暴力の被害は暴力の一つと世界に広げるべき」
反対意見は全くなく、私はこのような
「あまり知らなかった、知れてよかった」という感想を知れてよかった。
2〜4年生の、そういう世代が先入観を持っている考え方ではないことを
知ったし、wamなどの地道な努力がどこかでつながっていると感じた。
平和を構築していく時に、最低の自衛の動きが必要だという意見はあるが、
力と力の行先に平和はありえないと私は思う。
一度戦争が始まったら、停戦協定は切なく、戦争は終わらない。
子供たちに、絶対、共感から始まる平和構築は諦めたらいけないと伝えたい。
これから未来を生きていく人たちに
「共感は大切だし、人と繋がることは素晴らしい」
ということを発信の根底にしていきたい。