wam主催の「『紀元節』と『天皇誕生日奉祝』に反対する2.11-23連続行動」の実行委員会によるオンライン講演会を視聴しました。
「wamセミナー 天皇制を考えるシリーズ」の一つです。

静岡大学教授の黒川みどりさんによる「近代天皇制がつくってきた差別 〜水平社宣言から100年を機に考える〜」と題した2時間近い講演と質疑応答が行われました。


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■はじめに


・1871(明治4)年発令された「解放令」は、被差別部落民(賎民)は存在しないはずになった起点として、現在に影響を及ぼしている。

 後の部落解放運動の前身となった組織「全国水平社」創立から、今年2022年3月3日は100年となる。

・部落差別を温存してきた社会とはその精神構造の中心に天皇制がある。
 その構成員である我々のありようを問い直したい。

 部落差別も天皇制も、それぞれが衰退しても、それぞれが独立存続するであろう問題として捉えている。



1 被差別部落/同和地区


・政治的に区別されていた「被差別部落」「未解放部落」「部落」
教科書レベルでは「被差別部落」が市民権を得た言葉。

・「同和地区」とは行政用語。
戦前の融和政策、翼賛会などの運動の「同胞一話」から使ってきた
同和地区は被差別部落とは異なる言葉。

・部落問題は、結婚・就職差別に繋がっている。
若者は関係ないと思っているが。
東京都のデータ(2013年)を見れば、昔と傾向は変わってない。
親の半数は本人の意思を尊敬するが、
「しかたない」を含めれば、
親の半数近くはこだわりを持っている人は半分存在する。


●分布/地区数/戸数
・1935年と67年とを比べて、地区数が減っているのはなぜか?


●「同和地区」という境界
・1960年 同和対策審議会(岸信介内閣)が結成された。
その背景には、高度経済成長の下、①国の財源のゆとり②格差の増大が生まれた。

同和対策は国の責任である。
だから、1969年、事業をやる必要があるので「特別措置法」が制定された(時限立法)。
2002年の廃止まで続いた。
「同和地区」とは同和対策の対象となる地区であり、
属人ではなく、この地区を指定して対策するという法律。

・1935年、「地区指定」を選んだ地区が3450。
地区指定を受けた地区は、同和地区として対策を受けるので、
そこが被差別部落に線引きされるデメリットを引き受けた上で、
よくなる環境対策を受ける方(意思)を選んだ。

同和地区と未指定地区に分かれるだけで、二つの数値の合計が被差別部落。
未指定地区に調査は行きにくいが、そこは被差別部落として見ている。



2 島崎藤村の『破壊』(1906年)より


「新平民」とは当時の政府が差別したいために生み出した呼称。
つまり、部落民は顔つき、皮膚の色など生物学的に区別して然るべきと言う表現。
また、部落民が教壇に立ってはいけないと言う当時の常識スタンスが描かれている。
小説の世界ではあるが、当時の資料を調べると、
やはり部落民が教師になることは大変厳しかったことがわかっている。


「被差別部落の起源」について、静岡県の調査によれば(『人権問題に関する県民意識調査結果報告書』2004年)、
10人に2人は「人種(民族)が違う」という結果が出ている。
「人種民族が違う」は明らかに違う。
1999年(平成11年度)と2004年(平成16年度)の調査結果はほぼ同じ。
ということは、あまり意識改善されてない。

解放令が出る前も出た後も、穢多身分は何をしても変われない。
家柄・血筋の境界があるとされてきた。



3「解放令」後もなぜ部落差別が存在するのか


明治維新/近代天皇制国家の成立によって、1871年「解放令」が発令されたが。
その名目は「身分という線引きの廃止」だったはず。

しかし、その後も部落差別が今日も残る起因は何か。
身分の廃止、解放令が、なぜ存在してきたのか。

・封建的身分制度と連続的な線引きがある!
・線引きの補強や作り替えをしてきた結果ではないか。

つまり「差別の維持」が続いている。
生まれながらの印を入れたいと言う意思が続いているということ。

*人種差別と部落問題を同じレベル=レイシズムで考えていいのではないかと言うのが、私の問題意識(黒川)。



4 解放令の発布


1871年「解放令」が発令された。
・穢多非人を排したはずだが。
・旧身分を核として「新平民」「旧穢多」と言う呼称を作って、さらに身分差別を図った。



5 「開化」と「旧習」


「文明開化」の影響


●民衆による差別・排除
・日常生活空間からの排除
・学校からの排除 1872年学制発布により国民皆学
・「部落学校」不就学、長期欠席があった。
・「解放令」反対一揆、新政反対一揆における解放令取り消し要求
自分たちはずっと貧しいだけなのに法律によって保護の対象となり「解放」された部落を憎んだ民衆による新たな差別の一揆。



6 つくられる差別の懲


・1881年、デフレにより階層分化が生まれ、貧困が進んだ。
・経済的貧困による不潔によって病気(コレラ・トラホーム)の温床となった部落。

貧困から来るものなので、部落とスラムは共通しているように見える。
ただし、スラムは経済的貧困だけなので生来引き継がれるものではない。

・国家国民としての「日本人」を考える時、被差別部落とは?

人類学者・鳥居龍蔵による調査記事にて「被差別部落の人はモンゴロイド系ではない」とされた。
同じ日本人だが、穢多はマレー系。
学問の装いによって、被差別部落民は人種・民族が違うとされてしまった。



7 部落改善政策の開始と人種主義の浸透


・1908年「地方改良運動」開始。
境界はないから、政策しなくていいとしていたが、
日露戦争後に地方改良運動を開始した。
日露戦争に勝ったけれども報償金を得られなかったので、民心を引き付けるため、
いわゆる精神主義で改善しようとした第2次桂太郎内閣。

町村間で競争させた結果、被差別部落が「難村」として足を引っ張った。
そこで、1908年、部落改善政策が開始された。
警察による監視と強制による精神主義・干渉や密告を奨励した。
しかし、根本的に改善されるはずがない。
「特殊部落」とは、起源や性情が異なる被差別部落のこと。


●人種主義(レイシズム) 留岡幸助
地方改良運動によって部落改善の成果を要求したが、
部落外との「同化」を求められた被差別部落は、さらに炙り出され
より一層差別、排除されていった。



8 「部落改善」から「融和」へ


「部落改善」の制度は、ネックになっている被差別部落を改善したいということ。
責任は部落そのものにある。

1910年代、「白樺派」による文化活動が始まり、人道的な大正デモクラシーとともに
「融和」が始まった。

社会が忘れて、融和すべきであるという考え方へ。
大江卓が「民族の融和」スローガンを掲げ、融和を勧めた。



9 米騒動と「暴民」像の形成


*被差別部落に責任転嫁し始めたほど、政府は米騒動に危機感を持っていたと見る(黒川)。

・被差別部落住民が米騒動の担い手となる条件

米騒動で実際にそのまま弾圧されていれば差別ではないが、
被差別が40−50%も担ったとされたのが差別そのもの。

怨恨から米騒動を起こした被差別部落の扇動に乗るなと言う趣旨の新聞記事にもある。。

体制の危機を乗り切るために、差別によって民衆を分断し、
原敬内閣を作った。



10 自力解放運動の成立


・「同情融和」を喚起してもソッボむかれた政府。
・原内閣は1920年地方改善費を国家予算へ計上し、
第1次世界大戦終結後のパリ講和会議で日本政府は人種差別撤廃要求を提出。
外には撤廃を要求し、ウチには差別を進めた事実が、被差別部落の人たちの意識を呼び起こした。

・1919年、歴史学者・喜田貞吉が人種起源説を否定した。
つまり、先祖は混在しているから、人種も起源も皆一緒。

・被差別部落の人たちも「自覚」と「誇り」を追求・模索し始めた。
その中で、1922年、全国水平社が京都で創立された。

・水平社ができた後、融和を推進する国の団体ができていた。



11 「国民一体」と人種主義の相克


15年戦争(アジア太平洋戦争)が契機となった水平社運動と融和運動の接近。
・戦争をするために国民は一体化せねばならない。
・差別の矛盾を避けるために、皇民化政策を強めた。
・自ら融和できず、水平社は国と融和政策に接近していった。つまり思想転向。
・戦後の融和教育が始まるのは戦時下、日中全面戦争が始まった1938年。
・資源調整事業とは、部落は土地は狭いのに人口が多いから、「民族融和」のスローガンの下、「満洲」移民を進める人集めのために一つの柱になった。

例)熊本の一つの部落村が全村移民して戦争に負けた時、全村滅亡した。

1930年代後半、「大和民族」として「同一血族」を強調し始めた。
日本精神論と融和について、「日本人の包容力」が転機となった。

1938年、中学生への調査について(「中央融和事業協会による調査」1938年)
被差別部落の存在を知っている上で、
友人として交際なしえない、共に食事はなしえない、婚姻をなしえないなどの応えが半数以上を占めるなど、赤裸々な調査結果が数字に表れている。
・国民ほぼ全体の本音だと思う。
・この中学校は融和問題のモデル校だった。
・「国民一体」は知っていても、本音はこの調査にある。



12 封建的反動勢力との対峙


・1946年 部落解放全国委員会
部落問題の第一人者・松本治一郎によって発足
1948年「カニの横這い事件」の後、部落運動へ傾倒して行った。
→1949年公職追放
・カニの横ばい拒否事件(カニのよこばいきょひじけん)とは、1948年(昭和23年)1月21日、参議院初代副議長(当時)の松本治一郎が、国会開会式に来場した昭和天皇への拝謁を拒否した事件(Wikipedia)。

・結局、戦後復興から取り残された被差別部落が国策の樹立を要求始める
1955年 「部落解放同盟」と改称し、大衆運動団体へ変貌



13 「家」制度/遺伝学と部落差別

・血族結婚問題の台頭、遺伝学・優生学

・見合い結婚から恋愛結婚へ。
戦前よりも、遺伝学・優生学に基づく差別へ。
三木一平や小林綾が現れたが、遺伝の差別が言われる。



14 同和教育運動による問いかけ


・崇高な理念の同和教育運動
差別意識の問題を明るみに
民主化の内実への問いかけ



15 戦後復興から高度経済成長へ 広がる格差


・高度経済成長政策下、広がる就職差別、格差



16 「国の責務」の承認


・1965年 同和対策審議会が答申される
「市民」をつくる
 ①高度経済成長を支える労働力
 ②新たな「境界」としての「同和地区」〜「未指定地区」



17 部落解放運動の高揚と広がり


・部落差別が集約された「狭山差別裁判闘争」
1963年 狭山事件によって部落は再び「犯罪の温床」と刻印された
未組織地域への運動の広がりが「怒りの共有」となる
1969年以降、部落解放同盟による本格的な取組へ



18 「市民社会」への包摂と部落の誇り


①1970年代後半 同和対策事業の進展
②1975年、「部落地名総監」「日本の部落」「全国特殊部落リスト」が就活に利用された事件
これを契機に就職差別が軽減された。=>「市民社会」への包摂

・同和教育、人権啓発は、「政治起源説」から誇りを持つ「誇り」の語り部へ変化していった。
「政治起源説」とは、近世の権力者による民衆支配の道具であり、近代では独占資本による差別の利用・再生産。

・しかし、「誇りの文化」は、身の素性による排除を粉砕できないと思う。
「誇りの文化」は部落のいいところだけを語るだけなので、部落の真実を知らない若い教員は安易に飛びつかないで欲しい。(黒川)


●部落解放運動の再点検
作家・中上健次は、被差別部落に生まれ、根源的な問いかけ続けた。



19 同和から人権へ〜人権への流し込み


・特措法廃止による加速
・丸山真男の言葉が語る
①誰も傷つかない耳心地の良さ 
②「人権」のもとで置き去りにされる部落問題

逃げ場・隠蓑として「人権」が扱われる
・分かりにくさゆえに逃げる教員による人権教育に対する意識



20 部落問題の無化


問題として「部落問題」が真正面から取り上げられていない。
①『ある精肉店のはなし』(2013年)は、監督が精肉店への差別から、部落問題に辿り着き、問題を学んだことを映画化した。被差別部落問題への取り組みではない。
・これをみた立教大学生が映画祭で上映したが、屠畜産業への差別としか捉えてなかった。

②中上健次は読まれているが、部落問題に触れず近代一般論を論じる。
 『千年の愉楽』1982年映画化

・受け止める側が、このような作品から部落問題を問題として受け止めていない。


●部落問題は解消に向かっているのか
・部落問題が人権問題の対象になっていないのはなぜか
・差別している自覚がないからか(竹内好)



21 横行する人種主義(レイシズム)


レイシズムが問題化されているのに、部落問題が省みられることがない稀なこと
ルース・ベネディクト女史『人種主義 その批判的考察』は人種主義を喝破する



22 新しい部落民


角岡伸彦『被差別部落の青春』
明るい青春論の登場



23 天皇制と部落問題


・「開いた社会」と「閉じた社会」
「閉じた社会」の問題は、ナショナリズムが底辺にある。
非論理的に天皇制を尊ぶモラルの確立を阻む意識が部落差別を生む。

・「開いた社会」になるためには、他者を認識・理解する知性が必要。(丸山)
「ウチ」と「ソト」を越えて「他者感覚」
「ノーとなかなか言えない社会。ということは、他者を他者として理解する能力が比較的乏しい社会」
「知性の機能とは、つまるところ他者をあくまで他者としながら、しかも他者をその他在において理解することをおいてはありえない」


<<質疑応答:略>>


========== 以上