アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)は、”天皇由来の「国民の祝日」を「祝わない」という意思表示のため、昨年9月から開館日を変更し、2月11日、2月23日、4月29日、11月3日の4日間は開館して、天皇制を考えるきっかけとなるイベント等を開催する”ことにしたそうです。


その第1回目の昨年11月3日、京都大学名誉教授の池田浩士さんを講師に迎えて開催したwamセミナー 天皇制を考える(1)の「オンライン限定公開」をようやく視聴しました。


私にとっても「天皇制」の問題点を今一度しっかり考えたい好機でした。
日本国憲法との関係、国民主権と天皇制について、池田氏は率直に語り論じていらっしゃいました。
ここに拙いメモを書きとめますので参考になれば幸いです。


【福澤諭吉の天皇制論】

現行の天皇制を歴史的に捉えるとき、1945年の第2次世界大戦以降に象徴天皇制に限って論考するのは不十分である。

『学問のすすめ』を著した福澤諭吉の天皇制に関する思想が極めて重要だ。
すなわち、その著作『帝室論』『尊王論』に詳しい。
特に、1871年2月明治4年にまで遡る『帝室論』の冒頭の一句に尽きる。
「天皇は政治に関わってはならず、帝室(=皇室)の役割は人民の精神を収斂すること」だと論じている。 *収斂とは集め、まとめ、束ねること。

その成果として福澤は「恩赦」を挙げている。
天皇がたまたま見かけた罪人を赦すと意思表示すれば、裁判官などは赦すし、国民も異論を唱えなかった、これが天皇制による人民精神修練の具体的なあり方であり、成果である。
また、ヤクザの親分のように調停する役割として、軍人・軍隊の統率や政治・社会的対立の仲裁は政治的役割を担わず徳義・良俗の維持者として振る舞って見せる姿が習俗となること、伝統文化などの学術・技芸の奨励や叙位叙勲という勧賞、ことに恩典は恩赦とともに一般的に分かりやすい天皇制の特徴の見え方である。

さらに、福澤は『尊王論」の中で、”社会の物事の価値は労力によって決まる”経済を説く文脈で、労力と関わりのないものほど価値があると福澤は説いた。
世界に生きている無数の人々は「情海の塵芥」、つまり感情の海に浮かんでいるチリ・あくたにすぎず、情海に流されずに道理で動くものは10の内1か2しかいないという。
すなわち、福澤は「情海の塵芥」であることに疑問を覚えず自己反省のない人たちの精神を収斂するのが帝室=皇室の役割だと天皇制を説き、人間論・社会論を論じている。


【日本国憲法は帝国憲法の改正版】

上述したとおり、福澤の天皇制論を日本国憲法に組み入れ根拠にして私たちは現在生きている。
では、日本国憲法は何を基に作られたか。

それは、1890年、第90回大日本帝国議会で審議された「帝国憲法改正案」である。
金森徳次郎憲法改正担当国務大臣は下記のとおり答弁している。

●民主制と日本の君主制は何らの破綻も抵触もなく、天皇が憧れの中心となって国民を統合し、それを基礎として国家が存在する。(本会議)
●「国体」は新しい憲法のもとでも何も変更されず、この特色こそが国体であり、稀有なる例外を除いたほとんどの国民が承認している。(憲法改正委員会)

この「改正案」は国会で可決された。
「私たちの憧れと憧れの中心にいる天皇が一体となって国家、社会を作っている」のが、「戦後の象徴天皇制」なのである。

ここで憲法の中の日本語について解説する。
当初、憲法の第一条は「天皇は日本国の象徴であり、・・・この地位は日本国民の”至高の総意”に基づく」となっていたが、現行では「”主権の存する国民の総意”に基づく」となっている。
「至高(supreme)」も「主権(sovereign)」も語源はラテン語の「超越した(super)」。
「主権」とは「主権を持たない差別された他者」を常に前提とする超越した権利を持つ者を指す。
ここに、日本政府が「至高な国民」を「主権を持つ国民」の総意にしてしまった問題点、すなわち条文案が「主権」という言葉の問題をすでに内包していたことがわかる。

では、「象徴」とは何か。
「割符のもう一方」を指す、ギリシャ語の「Symbolon」が語源である。
「自分が持っていないもう一方の側」を指す語であり、「もう一方」がなければ自分の存在の証は立たない意味を持つ。
つまり、「象徴である天皇」がいなければ人間として「私を立証できない」、これを金森は「憧れ」と称した。
「お国のために死ぬ」ことだけが生きる意味である私は「無私」であり、天皇制の土壌・養分であると規定したのだ。
この考えの元に生きていることを、私たちは考えなえればならない。


【自由民権と天皇制は矛盾しない(植木枝盛について)】

これより少し遡った1881年8月、「東洋大日本国国憲案」を立案した植木枝盛(えもり)については、この時代の自由民権運動と天皇制論を語るとき外せない人物だ。
前段の「無私の私」がどのように形成されたか、植木から探る。

自由民権運動は、人民・民衆・民という概念が重要な役割を担った。
土佐で自由民権運動に身を投じた植木は議員となり、上記国憲案の第五篇において天皇と皇族について著している。
天皇の免責事項、その権限として統帥権、外交権、叙位叙勲が挙げられ、驚くべきことに皇位継承では万世一系とともに女性天皇を念頭に置いている。
さらに「日本聯邦(れんぽう)行政権は日本皇帝に属す」とあり、自由民権運動のリーダーは立憲君主制を大原則としていた。

立憲君主制は、明治維新以降、イギリス議会を手本に想定されたものだが、当時の自由民権運動の理念における天皇観および国家観は植木の日記から読み取れる。

植木の日記には天皇の動向を詳細に書きつけられており、日常生活での天皇観を窺い知ることができる。
いわゆる天皇にまつわる祝日はもとより、御真影をありがたがり、講演会では「天皇陛下の万歳、国家の万歳、我が党の万歳」を唱えた。自らの政治運動と国家や天皇を同列に扱い、紀元節に衆議院で天皇から酒肴を賜ったと喜ぶことは、自由民権運動のリーダーたちにとってごく自然な行動だったようだ。

植木の日記は、『日本書紀』『古事記』についても言及している。
「人民に利益があることならば神が行う政治に妨げがあるはずがない」という件において、植木は「神武天皇は実利主義(プラグラティズム」と褒め称える。
これは、つまり敗戦時、天皇制を延命させるために「人間宣言」をして、当時唯一の主権者だった天皇が責任を取らなかったことの裏返しでもある。
また、同日の日記には、上記2冊の女性蔑視の記述について、「男女同権の賊」と断言して怒っているが、その実、前述した憲法草案では帝位継承は「男が女に先つ」順序としている。
他にも天皇と皇族への共感や親近感が躊躇なく書かれている。
事ほど左様に、自由民権と天皇は矛盾なく共存した理念だった。

その植木が大きな影響を受けた福澤から思想的に自立し、乗り越えるきっかけとなったのが、福澤の『学問のすすめ』第六篇「国法の貴きを論ず」の一節だった。
福澤は、立派な人になるためには学問に励む事であり、学んで人の上に立てる人間になれ、一身の独立を目指すのは国の独立のためだと説き、その国の独立のために護るべき大切な法律を守らないのだから赤穂浪士はダメだと批判した。
これに対して、植木は赤穂浪士が生きた時代と現在とでは時代が違うと福澤を逆に批判した。
今現在は国法を重んじなければならないが、人民の代表でもない江戸幕府の私法を犯す事とは論点が異なり、もっと大事なことは主君を思う家臣の心なのだと赤穂浪士を称賛した。
つまり、植木は人間として大切なことは倫理であり、忠心は大切な心得として忠君は時代を超えて護るべきものであると、「忠君愛国」を基本倫理と論じた。これが「天皇万歳、国家万歳、我が党万歳」と唱えた彼の憲法草案の核心だったのである。


【明治維新以降も士族に統治された一世紀半】

明治維新で自由民権運動を担ったのは武士であり、新しい戸籍制度によって士族となった人々だった。
士族は、自由民権運動のリーダーであったと同時に、自由民権運動に先駆けて起こった農民一揆や下層労働者の反乱を鎮圧する暴力装置として機能し、明治政府に使われた(1869〜1884年)。
士族による自由民権運動は立憲君主制を自明のこととしていたのだ。

では、この一世紀半、日本国家社会は誰によって統治されてきたのか。
植木枝盛の「忠君愛国」、福沢諭吉の士族至上主義が土台の近代天皇制と身分国家は、現在も連綿と続いている。
「平民が社会の主体」とは程遠い「立憲君主制国家」が現実である。

初代伊藤博文内閣から敗戦処理の東久邇宮稔彦内閣まで、30人の首相のうち平民出身は広田弘毅首相のみ(華族二人、皇族一人、士族26人)。
福澤は、自著『文献論』『時事小言』で、士族を人間の脳や腕に例え、残る三民(農工商)を人間の胃や獣の豚に例えて、国家のために士族の血統を保つべしと論じている。
つまり、士族とは人民の95%を豚と思い、忠君愛国・男尊女卑を重んじる人々である。
そのような人口比5%弱の士族が武断政治を行い、日本を統治してきた。

士族による立憲君主制が近現代日本の「情海」を形成してきたのは、しかし過去のことだろうか?
 *戦後の首相33人のうち、旧士族と思われるものは10人(30.3%)である。

植木枝盛は女性天皇を考慮に入れても男女平等は考えてなかった。
福澤諭吉は士族至上主義だった。

しかし、男女差別はなくすべきであり、もとより無私を当然とする天皇制もなくすべきであると池田氏は考える。

では、人口の5%である元士族から豚と言われたり情海の塵芥とされたりする天皇制をありがたいとも思わない”稀有な10分の1の例外”として生きていくために、私たちはどうしたらいいか。

私たちにとって「社会的に見えない」ことは、「天皇制があるから見えない」のだ。
「私に”無私”を強いる割符の一つ」、つまり天皇がいなくても「私は私の目で(社会を)見るのだ」という意思はとても大きい。
割符のもう一方に何もかも委ねず、自分で見る努力をして、自分に見えないものはもう1人の自分を作って見ようとする、つまり友人に社会的に語っていくことが重要ではないかと池田氏は説く。
「10分の1の希有な例外である私」を誇りにして(何も考えない塵芥と蔑まれている)他の9人に(私たちは塵芥ではないと)語っていくことがどこまでできるのかが問われていると考えるのだ。

常に、天皇制に対して「私は”無私の塵芥”ではなく、自分の目で社会を見る」と自覚し、10分の1の少人数にしか見えないことがあるのだと、絶えず何かを発見し伝え続けていくことによって、関心を抱く友人=自分の目で見る人を増やすことが私たちにできる唯一のことであると池田氏は説く。


この講演会で、福澤諭吉の『学問のすすめ』の真意を知らない自分の不勉強を恥じました。
象徴天皇制を無批判に肯定することは、つまり「象徴天皇のために、いつでも死ねる自分」でいることであることに憤りを禁じ得ません。
では象徴を必要としない生き方とはどういうことかといえば、一つずつ検証して実践していくしかないのではないかと私も思います。