本年2月4日(土)、「長生炭鉱水没事故81周年犠牲者追悼集会」に参加してきました。
3年ぶりの集会は、山口県宇部市床波の「長生炭鉱追悼ひろば」にて約1時間にわたって開催されました。
海外沿いの海に向かって追悼碑が建てられた広場は、住宅街の真ん中にありました。
1車線を挟んで広くなだらかな遠浅に見えた海を背に、冬空の下、約150名ほどの参加者が民家一軒分ほどの広場で、ぎゅうぎゅう詰めになったほどでした。
【長生炭鉱水没事故とは】
*「刻む会」資料より抜粋編集
山口県宇部市の床波海岸には、第2次大戦末期、長生炭鉱という海底炭鉱がありました。
1942年2月3日の朝、その長生炭鉱の抗口から約1km付近の坑道の天盤が崩壊し、海水が侵入して校内労働者183人が犠牲になりました。
そのうち136人は日本が植民地支配した朝鮮半島から強制連行された、あるいは生活苦から渡日を余儀なくされた朝鮮人でした。
この事故は、戦争遂行のために安全を度外視して石炭を掘り続け、尊い命が犠牲となった人災であり、今なお、183人の犠牲者全員の遺体は冷たい海の底に眠ったままです。
当時、事故の詳細は市民には知らされず、長い間、事実は闇に葬られていました。
しかし、市民の手によって史実が明らかにされ、1992年から韓国の犠牲者遺族を招いた追悼集会(追悼式)が事故の日に開催されるようになりました。
2013年には念願だった追悼碑を建立した「長生炭鉱追悼ひろば」が造成され、追悼式はこの地で開催されてきました。
なお、追悼ひろばには、ピーヤという坑道の排気口を模した、朝鮮人犠牲者と日本人犠牲者のための追悼碑二つがあります。朝鮮人と日本人合わせて183名の墓碑銘も刻まれており、二つの追悼碑は二つで一つの追悼碑とされ、過去の歴史を反省し、乗り越えて日韓・日朝が仲良くなれるようにとの願いが込められています。
【追悼式と集会】
追悼式は主催者「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」(以下、「刻む会」)の司会によって約1時間にわたり進行しました。
まず、犠牲者の名の孫にあたる、ハルナユという福岡在住のシンガーソングライターによる鎮魂歌が披露されました。
黙祷の後、刻む会の共同代表・佐々木明美さんが「やっと3年ぶりに開催できたことを喜ぶとともに、2013年の追悼碑の建立後は犠牲者の遺骨収集とその返還という大きく重い課題に直面しており、これからも行政や政府の責任を問い続け行動していきたい」と開会の挨拶をしました。
次に、遺族・来賓の方々が追悼されました。
遺族からは、韓国遺族会会長のヤンヒョンさんが、「長生炭鉱水非常から81年の歳月が流れたが、遺骸発掘と奉還の問題は原因の元である日本政府が当然解決すべきで、一日も早い誠意を持った謝罪と共に要求する」と語りました。
来賓として、始めに駐広島大韓民国総領事のイムシフンさんは「またも世界に悲惨極まる戦争を思い起こさせる対立が起こり始めたことを考えると、差別と戦争が絡まって地獄を醸し出した長生炭鉱が、未来世代に何を話せるかを真摯に考えるべき時だ」としました。
大韓民国行政安全部のユンビョンイルさんからは「大韓民国政府はこれからも強制動員犠牲者の遺骨奉還に向け努力を続けることと、刻む会の絶え間ない活動に謝意を」との哀悼の意を井上共同代表が代読されました。
韓国民団山口県本部団長のソハッキュさんは、刻む会の活動を讃え、「韓日関係はよくない中、両国民と関係機関とが連携し合って解決の道を探り続けるよう行動する」と述べました。
在日本朝鮮人総聯(れん)合会山口県本部のリスポさんは「残忍な過去の罪業の爪痕が80余年を経つ今日まで癒されてないのは、すべて日本政府の政治的・倫理的責任である」として刻む会や遺族、在日同胞たちはこれからも共に行動していくと挨拶しました。
いずれも痛切な心の叫びでした。
この事故を忘れないために日韓交流を行った若者たちの声も声明文を読み上げ、次代につながる形はできているのだ思わされました。
「刻む会」共同代表の井上洋子さんから始まった犠牲者名簿は次々に朗読され、同会顧問の内岡貞雄さんによる閉会挨拶の後、参列者による献花がしめやかに執り行われ閉会となりました。
第2部は、ひろばから場所を移して、ヒストリア宇部にて同日午後開催されました。
内岡顧問による開会挨拶で始まり、刻む会共同代表の井上さんから基調提案がありました。
昨年の多岐にわたる活動報告があり、特に韓国の政権交代に伴う「徴用工問題」に向けた解決の機運に乗じて、”遺骨収集と返還”を日韓共同事業とするため、今こそ世論の大きな喚起を作り出そう」と力強く呼びかけました。
遺族代表からは2名が登壇されました。
韓国遺族会会長のヤンヒョンさんが遺族を代表してお話しされました。
そのほか4名のご遺族のお話は事故はまだ終わっていないとさらに痛感しました。
叔父が強制労働に連行されたヤンさんは、真の加害者である日本政府による誠意ある謝罪を求めると同時に、遺骨が埋まっているピーヤの発掘調査の必要性を解いていました。
同じように犠牲者の孫であるソン事務局長も、長崎県では日中友好の交流がコロナ禍を乗り越えて再開されているのに、当地で進展がないのは悔しく亡夫の遺品を一つでもいいから持って帰りたいなどと吐露していました。
次いで、「沖縄の風」代表で参議院議員の高良鉄美さんが登壇し、沖縄戦に通じる思いをお話しされました。いわゆる平和の礎問題として、朝鮮人も沖縄人も米兵も遺骨収集の重要性を解きました。
特に、沖縄の海の広域に散在する遺骨と違って、当地の事故はピーヤのすぐそばで収集できる遺骨が今も海底に眠っていることは歴史上の紛れもない事実であり、過去の人といえども「個人の尊厳、人権の尊厳」は憲法でも保障されているのだから、国家の責任として当地の遺骨は収集すべきだと強調しました。
「戦没者遺骨を家族の元へ」連絡会の上田慶司さんは、日本国内に眠る韓国の戦没者の遺骨に携わるうち、沖縄のみならず日本国内へと活動が広がった経緯から、刻む会に共闘する呼びかけをされていました。
折しも徴用工問題が韓国大統領の訪日に合わせて解決に向かっている最中、遺骨問題も一気に解決に向かう可能性もあるとして、日本政府の謝罪が問題となっているが、とにかく局面打開の機会到来と捉えているとしていました。
全体協議では、「もしも遺族が全員日本人だったら、ここまで遺骨は放置されなかったかもしれない」という、初めて追悼式に参加した近隣の関係者ではない方の話が引き合いに出されるなど、活発な意見交換が行われました。
最後に、3年ぶりの犠牲者追悼式開催について、内岡顧問は、刻む会発足から30余年の間、活動を続けてこられたのは遺族会の叱咤激励があったればこそと語りました。また、6年ぶりに4号となる証言・資料集を発行したことも報告して、貴重な証言の下、長生炭鉱の悲惨な水没事故を風化させず、二度と同じ過ちを繰り返さないと決意を新たに宣言、閉会しました。
刻む会の不断の努力にはもちろん頭が下がりますが、やはり遺族の方々の無念には胸が塞がります。
とともに、倫理観を改め日本政府の誠意ある謝罪を願い、事態が一歩でも前進することを祈っています。