10月23日(日)、wamが開催した本年の第18回特別展最後のセミナー「歴史教育と政治―自国中心の歴史から脱却するために」をオンラインで視聴しました。

今回は、国際歴史教科書対話の研究者で早稲田大学教育学部教授の近藤孝弘さんが登壇。
その資料をもとに丁寧かつ明快な解説をできるかぎり、要約しました。



1. 本日のトピックス


 ・国際歴史教科書対話
 ・過去の克服(ドイツ)
 ・歴史教育学の形成(ドイツ)


まず、副題「自国中心の歴史から脱却するために」とはなかなか難しい課題である。
クリアな答えを導き出せないが、考えることは大切なので、これまでの研究から話したい。

今回は、ドイツを中心にオーストラリア周辺に限って話すことになる。
戦後70年以上経っていることを考え、初期条件云々よりも70年間がどうか、今どうなのかが問われていると思う。
東アジアの状況を客観的に捉えるとき、ドイツの在り方を見るのは、とても大切だと思う。

2. 国際歴史教科書対話


近藤さんが就職したばかりの頃、発明した二つの言葉が下記の二つであり、いずれも直訳。

internationale Schulbucharbeit → 国際教科書作業
internationale Schulbuchforschung → 国際教科書研究

この二つから導き出した造語が「国際教科書対話」(internationaler Schulbuchdialog)


・重要なのは「対話」であり、「交渉」ではない!
ここに歴史学の学問性(とその境界)がある。


日本周辺、特に韓国のことなどを考えると、歴史を勝ち負けで考えるひとが多い。
百害あって一利なしの考え方。中国に関しても同じ。
学問的にいえば、歴史を客観的に見ていこうということ。
理想論だが、そもそも学問に国境はないはず。


ただし、歴史学にも見解が分かれる場合があり、どちらがより妥当かと言うことになる。
が、その検討を重ねていった結果、どちらかが妥当ということに落ち着くことがあり、それは歴史学の進歩を意味する。
喜ばしいことと思う。


このような当たり前の歴史学が学べないと、歴史そのものが学ぶに値したいものになる。
逆にいえば、例えば歴史認識問題をサッカーの試合のような勝ち負けで考えると、歴史学、歴史教育学に成り立つ私たちの生活を脅かすと思う。


しかし、ご存知のように、現実は複雑。
歴史家によって、実際には国によって、微妙に違う。
例えば、韓国が近代化するプロセスに日本人がどう関わったか。
日本と韓国の歴史家の視点に違いが出てくるので、専門的に歴史を学んでない人たちには都合のいい歴史観が広がる。


反対に市民の感覚が、それぞれの歴史家の認識に問題を与えることもある。
実際に、日本にも韓国にもいろいろな歴史認識を持つ人がおり、歴史学が国民の意識や国民感情から完全に独立しているわけではない。
だから、そのような違いがあるからこそ「対話」が必要である。


対話をしていないと、厄介な問題が出てくる。
議論の余地がないことに関して、訳のわからない見解が出てくることがある。
だから、議論の余地がないことを明らかにする必要がある。
議論の余地のある・なしを学問的に対話する重要性が出てくる。


昔は「対話」という表現を使ってなかったドイツで、近年は使い始めた。
近藤さんの踏み込んだ意訳が受け入れられるようになった。

「対話」という点において、戦後の成功例として、ドイツとポーランド、あるいはドイツとフランスの対話について解説する。


3. 国際歴史教科書対話(戦前の活動)


両方とも少なくとも第1次大戦前ではかなり知られた活動。
戦前の対話は、どちらもそれほどの成果をあげてない。


1)1935年 ドイツ=フランスの対話

ルイ14世の時代から第一次世界大戦までの両国関係史を扱うが,第一次世界大戦の戦争責任問題が中心。
 40項目からなる勧告をまとめることに成功 →戦後の対話のたたき台


当時の歴史教科書を考え、改善意見をそれぞれ両国で話し合った。
戦後に対話が再開されたときに出発点になった。
が、35年の勧告には成果が見られてない。
(ベルサイユ条約の賠償金の妥当性の問題)
両論併記で終わったから意味はあるが、それ以上のことはなかった。


2)1937/38年 ドイツ=ポーランドの対話

・議論内容について詳細は不明
・1972年に始まる戦後の対話との連続性は基本的にない
このどちらもナチ政権下での活動。


対話は2度にわたって行われたが、参加者の後日談のみ。
勧告がまとめられたかどうかは不明。
後日談より、踏み込めなかった可能性が高いが、対話自体は行われたことは重要。


特に独仏の対話との比較から、1935年の対話が戦後の発動に連なる。
ドイツとポーランドは戦前と戦後の活動の間に連続性がなく、フランスとの関係より厳しい環境にあったと推測できる。


戦前の活動について俯瞰すると、すでに1937〜38年のドイツはナチス政権下だった。
ワイマール共和国では対話が行われず、ナチスでは対話が行われた逆説的な話。


つまり、平和の意思がなくても対話はできる。対話の宣伝ができた。
重要なことは、どのような意図があって対話が行われたかということ。


4. 戦後の独仏対話


独仏は協力関係から発展した。
独仏の対話・活動は、ヨーロッパ統合の核。


・占領軍の支援により対話再開。この後、欧州統合のもとでの関係改善にともなって発展。

したがって、マイルストーンとして重視すべきは、1987年。


・1987年勧告: フランスの教科書におけるナチズムの記述について下記の勧告。

【勧告7 絶滅収容所の恐怖と民族抹殺は周辺的な事実として扱われてはならない】


【フランスの教科書:
いくつかの教材は,ナチ体制の非人道的行為を詳細かつ迫力ある形で記述することを放棄している。しかし,生徒たちが,強制収容所と絶滅収容所の大変な恐怖についての十分な知識に到達することは不可欠である。そうしてこそ,従順な単純労働者の助けにより,その非合理的人種イデオロギーを官僚主義的・技術的に民族抹殺の形で実現した人間嫌悪の全体主義体制が,いかなる犯罪を侵し得たのかを考量できるのである。また,その抹殺の対象となったのは主としてユダヤ人だが,ほかにも少数民族や一群の人々が存在した。・・・】


これは、東アジアでいえば、日韓の関係のなかで韓国に対して、南京大虐殺について書けということ。

フランスの教科書について、ホロコーストに加担したフランス人も存在することから一概にはいえないが、フランス人に対して「ホロコーストについて正しく理解しなければドイツを理解できない」とフランス人に対してアピールしている点は重要。


ドイツとフランスの間のナショナルティックな理解の対立が、かなりの程度に解決されていたと考える。
両国の教科書が完璧だったわけではなく、伝統的な独仏の対立は、このような対話に参加した両国の人たちにとって障壁はなくなっていったと思う。


5. 独仏共同歴史教科書


第1巻:古代から1815年まで 2011年刊
第2巻:ウィーン会議から1945年まで 2008年刊
第3巻:1945年以降のヨーロッパと世界 2006年刊


2003年、民間交流した独仏両国の学生が協力して「独仏共同歴史教科書」を作成した。
独仏エリゼ条約(独仏協力条約)の1963年締結から40周年の式典・イベントで独仏の高校生500人が、両国関係をさらに発展させるために歴史の認識が大切だという提案によって、国が作った。


それまでに独仏の対話で生まれたわけではない。
それまでの教科書の対話とは、両国のそれぞれの教科書の修正案をやりとりした、もともとあるものをブラッシュアップしたもの。


同時に使えるものを作ろうということは考えてなかった。
両国とも独仏関係だけを書いていたわけではなく、両国とも自国にとって重要な文化・社会などそれぞれ大切なことがある。
実用的な1冊の教科書に、両国にとって大切なことを共有することは無理と考えていたことを、学生たちがこの共同教科書で完遂した。


内容は、まず独仏、ヨーロッパ、世界史の3つに分けた。
独仏両国にとって重要なトピックを精選した。
独仏の歴史については、戦争などの関係史、独仏両国のそれぞれ国内の歴史に分割。
国内の歴史は比較の観点から、文化などを並べて比較するなど、関係と比較を時間軸によって書き分けた。


やはり、若干の問題があった。
画期的であるがゆえの問題。
教科書問題が新たな次元に入ったと言える。


6. 共同教科書の課題


・従来あった地方史や東欧諸国の歴史の記述が縮小


批判者からすれば、従来の地方史・地域史が減った。
ドイツにとって重要な東ヨーロッパの部分が削られたが、フランスにとっては重要ではない。
つまり、自国にとって重要ではない歴史が削られ、両国にとって重要な点が増えた。


独仏共同教科書は、ドイツにある「例外的にフランスに詳しい教科書」と言える。
逆に、フランスにとっても同じ。


ドイツにとって大国であるフランスに詳しい教科書、ドイツ国内で重要な地方について詳しい教科書を対比する大切さ。


両国政府が予算を投入して作った教科書は、業者にとっては不公平に見える。
教科書のマーケットの中で新参者。
しかし、実は現実的には影響がない。
はずだが、教科書関係者から不満が出るのは当然。


・翻訳の困難


翻訳の世界で、「完全」はありえないという問題がある。
雑な翻訳があると言わざるをえない。


~【例】~
ドイツ語版 「推定によれば5500万人が命を失った。この数字は軍
人の死者だけでなく,”空襲の犠牲となった民間人やナチスの絶滅 政策の犠牲者”を含んでいる。」
フランス語版 「推定によれば5500万人が命を失った。この数字は
軍人の死者だけでなく,”空襲やナチスの迫害による民間の犠牲者” を含んでいる。」
~~ ~~~~


”空襲の犠牲”とは、ドイツ人の被害。
フランス語版の方は、ナチスの犠牲の被害に、空襲による民間人の犠牲者を混在させている。


思わぬところで、通常の言葉遣いが出ていたことが翻訳の問題であり、永遠の課題。


7. ドイツ=ポーランド対話の展開


1972年、両国の対話を開始。
1969年、誕生した社会民主党政権の主導による。


オーダーナイセ地域が、戦後もあいまいにポーランドの管轄下だったが、西ドイツが返還を求めていたものを取下げ、関係が改善された。
旧ドイツと同じ広さの領土があった。


良好な関係の維持発展を目的に、政治的な問題は一応外交的に解決したが、国民からは納得されてなかった。
そのため、国民の相互理解を発展させるため、政治的な思惑が背後にあった。


西ドイツの保守派・野党は、教科書対話を批判した。
ドイツ各地の州議会に呼び出され、説明を求められ、アカ呼ばわりされたらしい。


1972年、議論が始まったが、82年の時点ではすでに収まっていた。
今も続いている。
2022年、50周年を祝った活動。


8. ドイツ=ポーランド対話の展開


・1972‐1976年 共同教科書勧告の作成・公表

・1976‐1990年 残された課題の検討
学問的な議論がなされた。


・1990‐2006年 ポーランドの歴史教育改革への支援

90年、ポーランドで体制転換が起こった。
それまでの社会主義政権下で研究上の制約があり、議論していいテーマの有無があった。
つまり、それまではドイツの歴史教科書の問題点が中心に議論されていた。


89年、ポーランドの政治的な重石が取れると、社会主義政権下の歴史像が見直され始めた。
その過程にドイツの歴史家も巻き込まれた。
現実にはポーランドで歴史をめぐる議論が自由化されたが、ナショナリスティックな理解がなくなったわけではない。
つまり、世界に通用する歴史理解を展開しようとする市民グループと、従来の共産的ではないナショナリスティックな歴史理解を目指すグループの議論の対立が激しくなって今日に至る。


ドイツの歴史家・世界に開かれた歴史観を持つグループは、ポーランドの保守政権にとって嬉しくない存在。
したがって、冷戦下ではドイツの保守政権と対立していたが、冷戦後はポーランドの保守政権と対立することになった。
これらのことから対話が開店休業の時期があった。


・2007‐2020年 共同歴史教科書の作成

2007年、ポーラインドに中道政権ができ、その前年の2006年、独仏の共同教科書ができた。
これを機に、ドイツ=ポーランドで共同教科書を作ろうという気運が高まった。
共同教科書委員会がイニシャチブをとった。


9. ドイツ=ポーランド共同教科書


ドイツ語版,ポーランド語版の第4巻が2020年発行された。
(ポーランドでは第8学年用)


独仏は高校用の教科書、独波は中学校用。
独仏は自由度が高く、作りやすい高校生用の教科書を作った。


試験に適していない教科書は使ってもらえない現実がある。
独波では、共同教科書の教科書検定=ハードルは、大目に見てもらえる中学校の教科書を目指した。


現在、当初の予想を超え、ドイツ国内で200校が共同教科書を購入している。
ポーランドでは、古い時代から第3巻までは検定合格し、ドイツ以上に好評。


しかし、現代史を扱う第4巻は2020年発行されたが、検定合格してない。
理由は不明だが、戦争中のポーランドがユダヤ人迫害に便乗したことが触れられていることが理由と推測する。
反ユダヤ人がポーランドにたくさんいたことはわかっているので、現在の右翼政権下では合格しないことはわかっている。
ポーランド人がユダヤ人迫害に加担したことは、ナチスドイツあるいはソ連・ソ連の被害者であるポーランド人ということになり、歴史修正主義になるから、真実を書けば教科書検定に合格しない。
ポーランドの中には、ユダヤ人を匿う代わりに金品をもらったという書き方をしたが、それが不合格の理由になっていると推測する。


これは非常に難しい事実であり、政治の問題であり、ドイツ・ポーランドの歴史家にはどうにもできない現状。


ポーランドの方が日本よりもいいのは、第3巻までは現在学校で使っている。
教科書検定に合格するということは、学校が教科書を購入することは補助金が出るということ。
つまり、不合格の本を授業で使うことは自由で、若干の自費で購入できる。


政治に巻き込まれやすく、相互理解を深めるのが政治的目標だから自明。
対話の席で激しい議論が戦わされることはない。
対話とは、合意できる点を見つける。
相手の歴史学の内容、社会的背景を理解すること。
歴史学を学ぶというよりも教育的な議論を深めること。


10. 過去の克服


西ドイツ初代大統領テオドア・ホイスの言葉

・被害者への補償
・加害者の追究
・ネオナチのような政治体制を復活する人への取り締まり
・社会的な歴史教育の取組


・1950年代における取り組みの遅滞(ex. ユダヤ人墓地荒らしの拡大)

歴史教育、教科書の観点から見ると、重要な点は、1945年あるいは独立した49年時点、戦勝国から独立した占領国は、ナチスの害・戦争やホロコーストに関する問題意識は強くなかった。
49年、アンケートから、「戦争さえなければヒトラーは良い政治家だった」という回答があった。


ナチスを美化する教育はないが、そういう教師がいた場合、処分を受けたとき、周囲の教師や地域の名士が処分の嘆願したという、ナチスに対して甘い考えの市民が多分にいた。
社会科授業が第2次大戦の前で教育が終わることもあった。

・独仏教科書対話の消極姿勢 ‐ 1963年キール勧告から
キールで行われた会議で、勧告した内容

 2. ナチズムは,以前からドイツの特定のグループに存在したドイツ内外に由来する思想の影響を受けている。例えば人種差別,反ユダヤ主義,最強の者が最良であり,力が正義であるとの原理などである。・・・

 4. 外国では一般に知られていない抵抗運動が,より強調されるべきである。最初の強制収容所は体制に敵対するドイツ人のために作られた。
 9. 仏・英政府の受動的態度が,ナチ体制の確立に責任を負わせるために持ち出されてはならない。


2と4は、フランスに関する勧告
9はドイツに対する勧告。
ホロコーストに関する記述がないことが重要。
初期の独仏対話ではインターナショナルな問題には取り組んだが、両国間で問題ではないホロコーストに関しては後回しにされていた。


この後、学生運動の時期に入ったので、両国間対話は中断した。


その後、再開された80年代、フランスの教科書におけるホロコーストが問題になった。
中断していた20年間にドイツ教科書が確実に大きく変わったということ。


ドイツの教科書の変化が、フランスの教科書に及ぼした影響は、実はそれほど大きくないのではないのかと思う。
勧告全般に関して、それほど大きな反発はなく、ポーランドによるドイツ領土の占領や戦後の難民問題の方に焦点が当てられ、保守派はナチズムを問題視してなかった。
76年、72年、ナチズムに関する過去の克服が進んでいたと思う。


11. 歴史教科書における過去の克服


1966年、出版された大ヒットした教科書によると、20世紀を扱った32%がナチ政権下に当てられていた。


15年後の1981年、第4巻で33%がナチ政権下に当てられた。


つまり、60年代半ばまでに過去の克服がなされ、その後も続いたと考えられる。


2020年発行の共同教科書は29.7%まで下がったが、50年以上がたち、冷戦が終わった後で相対的に下がっても30%近く保持されていることになる。

教科書対話が過去の克服を進めたのではなく、過去の克服が進められたから、領土問題の譲歩が進み、ポーランドとの対話が進んだと言えると思う。


日韓では、教科書対話にとても期待されている人もいるが、ドイツの現実を見ると同意できない。
歴史認識において、アウシュビッツ裁判などいろいろな事件が起こり、西側の同盟国からも東からもドイツは批判を浴びた。
ドイツの世論が動き、様々な困難があって今日に至ったと考えるのが妥当だと思う。


国際歴史教科書対話とは、過去の克服ができた体制ができたとき、その体制を国際的な枠組みの中に組み込んだことによって、より安定的なものにすることに意味があったと私は思う。


12. 歴史教育学の形成


・1913年ドイツ歴史教員協会設立 - 現在会員約8万人
機関誌『過去と現在(Vergangenheit und Gegenwart)』は1911年創刊(戦後は『歴史学 と歴史教育(Geschichte in Wissenschaft und Unterricht)』として今日まで継続)。


第1次大戦前の1913年、結成された全国組織「歴史教員協会」も、その機関紙も今も発行され続けている。
最大の歴史家大会が2年に一度開催された協会であり、ドイツにおいて、歴史の教員による協会は日本よりもはるかに存在感のある由緒ある組織。
にもかかわらず、70年代、大きな歴史学の転換が起こった。


2022年現在、ドイツの学会で聞けば、模範的な回答とされるのが、歴史学の大家リューゼンの言葉。
 “1970年代にドイツの歴史教育学は作られた”
リューゼン(Jörn Rüsen): 「1960年代から70年代にかけて,専門的に生産された歴史の知識に対する,教育における古くからの需要が喪失した。それまでの歴史教育は,若者を責任ある政治的市民に育てる上で不十分とされたのである。歴史の教育と学習について,その形式・内容・目標をどうすれば良いのかがわからなくなっていたなかで,歴史教育学は,歴史教育の正当性の危機を克服し,学校において今日に相応しい形で歴史を扱うために必要な視点を検討し,また発展させる学として構築された。」


つまり、70年代以前の歴史学は、ドイツ国家を創設・維持するための歴史を教育をした。そのような教育のあり方、ドイツ国家を支える歴史学や教育がナチズムを止められなかった。
そのことを戦後に反省しなかった在り方は、青年にとって学ぶ価値がないと思われた。
だから、その状況を打開するために、学ぶ価値のある歴史学が現在のドイツの歴史教育学であるという認識。


・“歴史と理性的に関わる能力の育成”を目指す歴史教育学の形成【現在のキーワード】


以前は、理性的に研究された正確な歴史を学んだ。
現在は、多くの人々が信じている歴史や外国の歴史家が一般的に理解している歴史について、なぜそう理解されているのか・どういう問題があるかを考えることが期待されている。


歴史の「記憶」を社会的・政治的に分析する力を育成することが歴史教育であると理解されている。
このように変わらなければ、生徒たちに真剣を学んでもらえないという認識があった。


おわりに


日本では近隣諸国との問題として語られてきた歴史教育の問題。


歴史から学んで、どのように生きていけばいいのかを考える延長線上で進められてきた。


・ドイツの例からわかるのは,国際歴史教科書対話によって過去の克服が進み,歴史認識問題が解決され,国際関係が改善したのではないということ。


・むしろ,それまでの国家のあり方への批判が歴史を学ぶ意味の問い直しをもたらし,その一部として国際歴史教科書対話は行われてきた。


・対話は,かつての国家のあり方への批判の意義を目に見えるものにするところにこそ価値が認められるのではないか。


自国中心の歴史を脱出するために必要なことは、政治的社会的な環境あるいは個々人が持つ政治的な考えをどう持つかが重要であり、好ましい状況ができたとき、それを維持する道具として教科書対話があると思う。


今日の話は、ドイツのサクセスストーリーがメインだったが、旧東ドイツあるいは東側あるいは保守・右翼と連携したい向きもあり、彼らには理解不能な話。
ドイツの一面にしかすぎないけれども、表看板ではあると思う。


特にドイツの歴史についての考え方を刷新するのは見事だと思うし、参考になると思う。


以上