「天皇と家族のイメージ」について考えたことはありますか?
最近、眞子内親王の結婚で、皇室の御一家ともなると結婚は大変だなぁと思う程度で、私は天皇一家と一般人の家族とを比較して深く考えたことはありませんでした。

アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)では、
2021年11月3日、wamセミナー天皇制を考えるシリーズ(5)
「近代天皇と家族の表象」と題した天皇制維持を問うオンライン講演会を

開催しました。
講師は、北原恵氏(表象文化論・美術史・ジェンダー論/大阪大学元教員)。

講演は、「なぜ、天皇一家の写真に注目するのか?」と、そもそも論から始まりました。
以下、メモを元に概要をまとめましたので、令和の時代に入ってますます混沌の様相を呈している皇室事情と国家のあり方について考察する一助になればと思います。


0.イントロ

なぜ、天皇一家の写真に注目するのか?
天皇一家の写真について、歴史的な変遷を見ていく。
元旦の「皇室一家」の様子がマスコミなどに掲示されてきたことについて、
個人的に不思議に思ったことが皇室表象に関する研究の端緒。

近年では、眞子さん(元内親王)の結婚へのイメージの変化が
サブカルチャーでも取り扱われ、興味深い様相を呈している。

そこで、元旦の「ご一家写真」は、いつ頃から、どんなイメージで
マスコミに登場してきたかを端的に振り返る。

戦前、皇室の「家族像」は不在だった。
戦争中、占領期、戦後へと変遷した。
近年では、アート作品として問題提起されている。
 例)小泉明朗氏のアート作品≪空気#1≫(2016)
  天皇一家が写ってない皇室室内を描いた。
  2014年の写真が元データではないかとされる。
  ひとが写ってない影のみだけて、存在の意味を問う作品。

*近年の「ご一家写真」や「皇室カレンダー」に見る、変化する皇室の表象とは
 ・2007年頃から皇位継承者が読み解けなくなってきている座り位置。
 ・2020年1月、真ん中にくるべき上皇が端にいる不自然さ
 ・昨年の皇室カレンダー菊葉文化協会制作・・・・
 ・2021年元旦、家族がバラバラの写真掲示
 ・表象を歴史的に辿って見る


1. 天皇・皇室の視覚化(前史)――錦絵・石版画

 ●錦絵と御真影の違い=イメージのギャップを石版画が埋めた。
・「皇室アルバム」の始まり。その後、3世代のロイヤルファミリー図像の完成へ。
・明治35年頃、国家は天皇一家の内部へ介入し、
 バラ・菊・戦車・旗・玩具などで象徴性を持たせた。
・20世期の初めの頃、ロイヤルファミリーの図像化は完成していた。

 ●空間:その年の「日本国家」の凝縮


(1) 錦絵

1) 天皇・皇室の視覚化

■正月新聞の天皇一家写真を分析する
元旦の新聞は、その年の日本国家の凝縮。

天皇一家の図像は、生前に描かれることはなく、亡くなってから描いていた。
大正時代に入ってから、生前に描くようになった。
昔は天皇に家族のイメージもなく、天皇を描くイメージもなかった。

 ●「錦絵」は江戸時代に確立した木版画
明治初〜天皇の巡幸の視覚化:見える化によって神格化していく。
明治20年代〜露出が増える

 <掲載例>
*歌川広重(三代)広重≪明治九年六月二日奥羽御巡幸万世橋之真景≫1876 年
・顔は見えない。
・翌年以降、天皇の顔が見えるようになる。視線はバラバラで家族団欒の風景はない。
・錦絵は、近代国家を象徴するような場所へ行楽にいくようなシーン。
 国民に親しみを喚起するような図像。
・錦絵のロイヤルファミリーの図像は昭和天皇が生まれた頃から始まった。
 右端に明治天皇、左端に大正天皇、真ん中に内親王、直系家族のみで中心に向かう視線。

2) 明治 10 年代~天皇の容貌を具体的に描く
国家的重要行事、花見・相撲を楽しむ天皇皇后

3) 明治 20 年代~皇太子を伴い始める-勧業博覧会・靖国神社

4) 20 世紀初、ロイヤルファミリーの図像完成
掲載例>
*延一《日本寿豊之図》1902 年(M35)


(2) 石版画

●「石版画」の皇室図像
・錦絵よりたくさん描かれている。
・幕末に導入された新しいメディア。
 1名所・東海道など風景 2芸者など女性 3皇室

1) 明治 10 年代、一般に普及
・天皇一族が出てくるときには政治家、後続に取り囲まれるイメージで明治14年頃から出てきていた。

2) 明治 20 年代、隆盛―天皇・皇后・皇太子
・石版画に出てくる天皇・皇后・皇太子は、明治20年代に隆盛。

3) 図像の変化:
政治家や皇族に取り囲まれる天皇・皇后(1881 年 M14)、メダイヨン
⇒天皇・皇后・皇太子像へ
・楕円形の枠取りの意味:モニュメンタルな肖像の様式。
・「メダイヨンに囲まれた形象は、周囲から断ち切られ、それとは異なった次元におかれ、現実性と時間を超える像」

4) 石版画の特徴――容貌の類似性


(3)「御真影」「御写真」と石版画・錦絵

1) もとは絵画、エドアルド・キヨッソーネ(自らモデルに)、理想化された男性身体
⇒丸木利陽が撮影、1889 年(M22)完成

2) 錦絵と「御真影」(公式肖像)のイメージのギャップを、石版画が埋める

3) 石版画のロイヤルファミリー図像の完成、20 世紀初
掲載例>
*上条與茂太郎《大日本帝室御尊影》1902(M35)


2. 新聞附録

(1) 新聞附録の発達―顧客拡大の手段、技術の進歩
・ニュース媒体(号外)、議会勢力図、株、カルタ、双六、カレンダー、ちず、縁起物絵画
・明治末〜大正初め:ダイレクト→オフセット印刷
木版→石版→プロセス平板(機械)

新聞付録は顧客拡大の手段となった。
東京朝日新聞が一番多く作った。
わざわざ政府の許可を取り付け、明治天皇の図版など絵付録を発行した。
「歳旦大付録」明治24年元旦、明治天皇を真ん中に、周りに皇族・政府高官を配置し、
二重橋、日の丸、ガス灯、工場が統治下のヒエラルキーを視覚化、近代化を示した。
すべての名前も書かれていたが、天皇一家だけ名前はなし。
公式の御真影があまり人目に触れない時期、人気があり、イメージが広がった。

有名な付録:「大阪毎日新聞」1905年1月1日M38「高貴後一族御症状」
この頃から皇室がらみの祝祭日に発行されるようになった。
部数も増えたらしい。

和田英作による「聖上の尊影」「皇后陛下近影」:大阪朝日新聞の付録など

雑誌でも、女性向けのものでも20世期初頭から増えた。
 <掲載例>
*『東京朝日新聞』創刊号附録《貴顕之肖像》(明治天皇)1888
*『改進新聞』「歳旦大付録」1891
*『大阪毎日新聞』附録「高貴御一族御肖像」1905 年 1 月 1 日


(2) 新聞附録の皇室の特徴
附録は顧客獲得の重要な手段として発達した。

1) 公的肖像画では、政治家・皇族と明確なヒエラルキーが付けられた。
 ●『東京朝日新聞』=皇室中心主義、頻繁に登場
 明治30年代後半以降、皇室肖像が正月に集中した。
 ●新聞の正月という祝祭空間は、天皇一族と結びつきながら形成されていった。
 皇室もそれを利用しながら、イメージを広げた。
 典型例:「大阪毎日新聞」1905年元旦附録
 ●この頃は日本が帝国主義化(日清・日露)の時代(大正末期) ⇒新聞紙面に主要な場所を移し変えていく

2) メディア空間としての正月新聞

必要条件:
 1)近代新聞の創刊、印刷・写真技術の発展
 2)新年の祝祭日としての制度化
 3)国家的祝祭の「ハレ」の場としての正月空間の創出、
 4)「ハレ」と皇室の接合

20年代後半〜各紙とも元旦附録発行、
30年代〜後続の肖像附録発行が、三大節に集中
新聞:皇室の神性・権威と結びつき、正月の「ハレ」の空間演出
皇室:新聞の新しい知のメディア(=ニュース性・速報性・広範囲な伝達性・浸透性)を獲得し、両者は相互依存的関係へ

3) 近代天皇制への視座(吉見俊哉の考察)
「近代天皇制を、ネーションワイドなメディア・テクノロジーに媒介され、
天皇の身体に焦点化されるヘゲモニックな言説の受容/消費のシステムとして把握し直す」
(吉見俊哉『カルチュラル・ターン、文化の政治学へ』2003)

「天皇制が、戦前期の一時的な国家機能に過ぎないわけでも、
また「日本文化」の深層構造として実態的に存在しているわけでもなく、
写真、電信、ラジオからの教科書、勅語や唱歌、新聞や雑誌に至るまでの
メディアのネーションワイドな編成に媒介された言説と解釈のシステムとして、
歴史的に構築されたものである」(同上)

つまり、吉見は「戦後の天皇制のイメージはメディアによって作られてきたものだ、
マスメディアをそういう目でみるべきだ」と論じている。


3. 新聞紙面の皇室

皇室が新聞誌面にどういう風に登場してきたか


(1) 大正末~元旦新聞紙面に定期的に登場

1) 新聞紙面の正月空間の形成――読売、朝日、毎日
 >読売新聞
当初は、明治20年代まで正月に発行してない。
大正12年くらいから、元旦誌面に毎年皇室が掲載され始めた。
新聞により特徴あり。
 東京朝日:皇室中心
 大阪毎日:新興ブルジョワジー

2) 元旦新聞の天皇一家像の形成――1922-3 大正11年頃年頃~、毎年紙面に登場
背景:大正天皇の病気、皇太子妃選定のスキャンダル=権威の失墜
世界的な君主制の崩壊(WWI)
1921年皇太子ヨーロッパ視察旅行。帰国後、摂政に就任。
この頃から国体の視覚化:天皇一家像が現れてきた。

3) 近代化・科学の推進者としての摂政宮像(大正末期)
背広で執務中の室内、書類、カメラに視線を向けたり、
科学の推進者、近代化、西洋化を演出。

4) 1928~天皇の子どもが元旦新聞に登場し始める
昭和3年頃から登場。
誌面一面に掲載されたりする。

 <掲載例>
大阪朝日新聞1937年元旦誌面。天皇の家族全員が元旦誌面に登場。
横山大観の富士をバックに、家族写真とはいえない家族写真。
つまり、「公的肖像」。一人一人枠取り、切り離す、親密さなくヒエラルキーがある。
子ども=赤子の象徴
様々な対称的表象化
歳を取らない親/歳をとる子ども
真影/毎年の写真
時間の静止/時間の流れ
「家」家族/「家庭」家族
 ↓
天皇・皇后/子ども
時間の静止/ 変化
歳を取らない/ 成長
国父母/ 赤子
家/ 家庭
国家を表象


(2)図像の特徴:奇妙な家族写真

1) 一人一人枠で縁取られる=同一空間でない
⇒成員同士の交流・親密さなし。序列、一族・直系家族のまとまり

2) 貞明皇太后の不在(1884-1951、活躍中ー外地新聞、他の皇族と登場)
戦時中は色々活躍していたが??
子ども=赤子を代表?

3) 天皇・皇后=御真影 / 子どもたち=毎年成長する姿
 <掲載例>
*1937 年 1 月 1 日『大阪朝日新聞』
 真影 / 毎年の写真
 国父母 / 赤子
 年を取らない親 / 年を取る子ども
 時間の静止 / 時間の流れ
 「家」家族 / 「家庭」家族
 国家

4) 枠取り・皇太后の不在
「一人一人切り離され、赤ん坊までもったいぶって枠で囲まれるのは
象徴化のための仕掛けだろう。四二年以来皇太子が消えるのもそれで説明がつく。
少尉に任官した次期天皇は、もはや慈しまれる『赤子』ではないからだ。
皇太后が家族写真に登場しないのもおそらく同じ理由による。
家父長制家族において家長の母親は妻とは比較にならない権威をもつ。
にもかかわらず皇太后はつねに排除されている。
それは天皇家が近代家族であったためというよりは、
天皇の母を『赤子』に仲間入りさせるわけにはいかなかったからではないか。」
(加納実紀代「日本国天皇の像をジェンダーで読む」1999)

ただし、明治の最初に存在していた、その後消えた過程の意味がまだ不明。

5) 1938~1945 元旦新聞(『東京朝日』)に掲載された皇室写真を比較する
戦争末期には子どもは消え、軍服天皇のワンショット、御前会議の図像に
御前会議の写真。
戦争に向かっていくときには、天皇の1ショットか御前会議の写真となっている。

つまり、表象分析は歴史分析に繋がる。


4.「家族像」「家庭」「家族写真」


(1)家庭の生成と国民国家

明治20年代「家庭」成立 家庭・家族の女性化・「私」化。
明治40年代 家庭・子ども・婦人関連の展覧会・博覧会→語り、展示・見られるもの

「家庭とは、簡潔にいえば、公共領域と家内領域との分離を前提として、
私的領域・女性領域と観念されていること、人間の再生産を担っていること、
家族成員の情緒的絆が重視されていること、この三点の特徴をもった家族である」
(小山静子『家庭の生成と女性の国民化』1999) *1897「家庭=home」

私的領域・女性領域としての家庭とは
 ●「国家の発展にとって、国家の基礎としての家庭の”文明化”が必要不可欠と考えられ、
家庭の生成が図られたのであった。とするならば、家庭を国家と一線を画した私的なもの
と捉えることができない事は、誰の目にも明らかであろう」
 ●「いったい近代国家は、私的領域、女性領域と考えられるようになった家庭に対して
どのような関心を払い、家庭の形成、あるいは家庭のあり方にどのように関わって
いったのだろうか」(小山静子)


(2) 家族写真=集団の統一や一体化を強調する機能

1)  ピエール・ブリュデュー
「家族写真とは、家族が主体であると共に客体となる一種の家庭崇拝の儀式」
「これほど型にはまった、従って個々人の意図がもつ無政府状態に委ねられることの
余りない文化活動は少ない。・・・(略)・・・写真の実践が存在し、存続するには、
たいていの場合、その家族的機能、いやそれ以上に家族集団が写真に付託する機能、
すなわち家庭生活の重要な瞬間を荘厳に祝い、不朽のものにする機能、要するに、
家族集団がその集団自身や集団の統一性などに関して抱いている感情を再確認する
ことで、その集団の統合、一体化を強化する機能によるしかないということが
理解される。」『写真論』1965 家庭崇拝の儀式

2) 鶴見良行:
「年代記的秩序に従ってアルバムを貼り込む実践を積み重ねることにより、自分の家族を他の家族から区別するまとまりの意識、そのまとまりを世代から世代へと連続させたいという系譜的イデオロギーが形成」(1958) ⇒天皇制の万世一系主義に対応
「家庭アルバムの記念写真が、日本の家父長制度に組み込まれ、その家父長制度のイデオロギーが天皇制を支えるもっとも有力な支柱であるとすれば、神棚の奥に祀られた父母の写真は、天皇の御真影と論理的に対応するものとなる。」「家庭アルバムの原型」

つまり、家族統合・一体化強化の機能=国民統合へ。

鶴見良行による「家庭アルバムの記念写真と天皇制」
 ●構図の上で御真影と強い類似点を持つのみならず、御真影に象徴される天皇制を
  基底にあって支える記号的対応物として、イデオロギーの上でも重要な意味を
  持っていた」1964


(3) 家族の肖像写真――明治中期~、一般に普及
明治の中頃から、家族写真は撮られるようになってきた。
鶴見良行によれば、
・高価なので一般人は撮らなかった。
・戦争に行くとき撮った。
・正月など生活の区切りの際に撮った。
これらの場合、肖像写真となる。

>大正3年頃から(読売・東京朝日)
新聞誌面における家族写真の登場
文化に浸透し始めていた(時代の先取り)歴史的に繰り返されていたとする

>>>(省略)占領期:天皇が女性化、老人化などジェンダーが揺らいだ時期=軍とは関係ないという意志の表れ


5. 戦後「天皇ご一家」の表象へ

「記者ハンドブック」にも記載があるとおり「戦前の皇室用語」あり。


(1) 元旦写真と一般参賀
創出された「一般参賀」=天皇の現前性の保障
新年朝賀の儀(拝賀/参賀)
=1948國民参賀 二重橋を渡り記帳、徐々に天皇・皇后のお出ましが制度化=質的変化
→1953「一般参賀」


(2) (占領期省略)*1953 年 1 月 1 日『朝日新聞』「皇太子さまの御渡英、ご一家での楽しみ」


(3) 戦後、「ご一家」像の特徴
・戦後「御一家」像の完成。
構成員:天皇、皇后、息子たち。未婚の娘たち (皇太后の不在)
空間:皇居内にとどまる(平成~閉鎖空間、定型化)

1953年元旦3面
皇太子(中央)の渡英=新しい日本の独立

掲載例>
・1953年昭和元旦の御一家写真(朝日新聞)
皇太子妃だけがしゃがんでいる、他は全部立って見下ろしている。
・美智子皇太子妃だけが絨毯に座っているなど、散策のシーン、
 室内のシーンは全て皇居内での撮影。
・戸外とは皇居内のこと。

 ●平成以降のご一家写真は、室内が定型化。
昭和天皇の妻である皇太后は2000年までは生存しているはずなのに、
写真には収まってない。

■戦後のご一家像の特徴
構成員:天皇、皇后、息子たち、未婚の娘たち(皇太后の不在)
空間:皇居内にとどまる(平成〜 閉鎖空間)
以下の特徴が見られる
 1家族成員相互の強い情緒的関係
 2子ども中心主義
 3家族の集団性の強さ
 4非親族の排除
 5直系、男系


6.考えたいこと、あれこれ・・・(問題提起)


■眞子内親王の結婚から見えたこと

■皇室の「公/私」とは?・・・構築された歴史
 戦後、「公/私」の区分創出 「宮中祭祀=私事」→生き残り
 皇室の「プライベート、プライバシー」は「私」か?
 女性皇族=公私を領域横断する存在
 生殖=私か? 私事が国家的出来事に(皇室)

■「皇室の民主化」? 皇室にも人権をという声が出てきた。
 「女性天皇」の声がフェミニストから出たが?

■「大衆天皇制の崩壊」? リベラルな天皇イメージを求めたが?
 天皇研究のジェンダー? ジャンル自体がジェンダー化?
 アメリカ化を考える前に、眞子さんがアメリカに行ったのは?

■サブカルチャーの皇室表象
・眞子様萌え:制服を着た眞子さまをモデルにアニメ化。
 2005年から始まったマコリン「ひれ伏せ平民どもっ!」ニコ動画2007
・真子様をモデルにミリタリー物がヒット。
吉田親司「女皇の帝国」全6巻、2007-2010(架空戦記、ヤングアダルト)
高遠るい「レッドマン・プリンセス:悪霊皇女」2018
愛子様をモデルにスピリチュアルな力を期待している。
権力批判、老人・女性批判も含む。

■天皇(血筋)の神秘性・霊性への希求
「東京プリズン」赤坂真理(2012):母性化された天皇が憑依して、天皇制を神秘化してエンディグ。反米思想。
「箱の中の天皇」赤坂真理(2019)
「スノードロップ」雅子皇后がモデル。女官が皇居の中にハッカーの基地を作って、国の防衛に尽くす。皇室が最後の砦とする。

・天皇の血筋に期待する向きがあるのか? どこからきたのか??
 眞子さんへのバッシングに繋がっている気がする。

・「twitter”天皇”」少し前の時代ならば考えられない状況(誕生日に天皇をコラージュして投稿)が出てきている。

<<質疑応答:略>>

========= 以上