株式会社たびせん・つなぐによる、「2021年たびせん・つなぐオンライン企画」の「世界の平和博物館を訪ねるオンラインの旅〜韓国と被災10年の福島」第1回と2回に参加したので概要をレポートします。

2月6日の第1回は、韓国のソウルにある慰安婦の施設「ナヌムの家」国際室長の矢島さんによる、ナヌムの家を見学し、そこで暮らしているハルモニの一人と交流した回でした。

「ナヌムの家」とは、戦時中に性暴力を受けた慰安婦たちが韓国へ帰国後に暮らしている施設で、現在はさまざまな役割を果たしています。



●ハルモニとの交流

まず、ナヌムの家で現在も暮らしているハルモニ(おかあさんの意味)と矢島さんが登場し、ハルモニと今回の参加者たちとの質疑応答で交流を図りました。
(よく聞き取れずお名前など誤っていれば申し訳ありません。あしからず)


・参加したハルモニの紹介
 イ・ヨクソンさん。韓国釜山の生まれの95歳。


・コロナ禍の今の暮らしで楽しみにしていることは?
 ご飯食べている時が幸せ。このようないろんな方と会うのが楽しみ。


・釜山で過ごした少女の頃の思い出は?
 日本の統治下にあったので、暮らしは厳しく、学校に行けることは少なかった。


・14歳のとき、連行されて慰安婦にされた。
 解放された当時の思い出は、当初解放されたことを知ることはなく、混乱した状態だった。軍人が慰安所へやってきて戦争が終わったことを知らされた。


・世界中に出かけて慰安婦としての体験談をしたのは何カ国?
 日本、アメリカ、ドイツ、フィリピンの4カ国。フィリピンに行ったとき分かったのは、日本軍が作った慰安所に入れられた人はさほど多くないようだったが、フィリピンではそういう女性たちと交流した。しかし、フィリピンの食べ物が合わずに大変苦労した。
 日本に行った時、特に沖縄は気候も人も食べ物もとても良かった。
 アメリカに行った時もよかった。目的は、私たちが日本から謝罪を受けられるようお願いしに行ったが、皆さんからよくしてもらったので、いい印象が残っている。
 ドイツに行った時も歓迎を受けて、自分たちのことを歴史的に取り上げてくれると約束してもらい、よかったと思っている。



・今日の参加者や日本の若者へメッセージは?
自分たちが受けたことは世の中の人が広く知らなければいけないこと。
日本政府に謝罪してもらわなければいけないし、
私たちは日本政府に連行されて無理やり慰安婦にさせられたのだから、
謝罪してもらえるなら、それが最高のこと。


・参加者から質疑・感想
Q1)私の母は84歳ですが、以前、ナヌムの家を訪ねて「あなたはここにいた人みたいだ」と言われたらしい。
いずれ私が訪れた時、何を持って行ったら喜ばれますか?

 A)そんなに気を使わなくていいですよ。

Q2)今日参加できてよかった。こういうことを話題にしようと思っている。
わが家の若者にも伝え、会う人にこのことを伝えるよう話そうと思っています。

 A)コメントありがとうございます。私のような慰安婦の歴史は痛みを伴うものなので、広い人に知ってもらいたい。市民がこの歴史を広く知ることによって、自分たちが体験したことを他の人たちにさせたくないからです。

Q3)お体の調子はいかがですか。コロナで訪問できなくなったけれども、また伺うので元気でいてください。

 A)コロナさえ収束されたら、ぜひお越しください。

4)コロナでナノムの家にいけなくて残念です。学生も一緒に訪れて、皆もたくさん話をさせてもらってよかった。

 A)コロナさえ収束したら、ぜひお越しください。



●矢島さん(マリオさん)による「ナノムの家」紹介

1)矢島さんとハルモニの紹介
ナノムの家で国際室を担当している。
今回は毎年行われていたスタディツアーがなくなったので、オンラインツアーとなった。
現在、一般の訪問客を受け付けていない状態。
メディアの取材もハルモニがいない別の建物で対応している。


・簡単に「ナノムの家」設立の経緯を紹介
1991年、金学順が慰安婦と名乗り出た。
1992年、ソウルで慰安婦を支援するナヌムの家スタート
1995年、京畿道広州市へ移動し、現在も同じ場所で運営中
1998年、ナヌムの家敷地内に博物館として日本軍「慰安婦」歴史館開館
 #当時は現在よりも支援する声や資料提供、寄付金は多かった。
  韓国市民と日本市民とが力を合わせて作られた。
2017年、第2歴史館(追悼館)がスタート。

現在、5名の生存者が生活中、これまで約30数名が居住。
実は、データベースを作ってなかったので、短期利用だった女性たちの数は不明。


・現在、生活中の方の紹介
 イ・オクソン(1927年生まれ)
14歳で慰安婦になり中国へ連行された。
58年ぶりに韓国へ帰ってこれたが、家族自体が慰安婦のハルモニを受け入れてくれず、帰国直後からナヌムの家で暮らし始めた。
以降、諸外国で証言しながら過ごしてきた。

 同姓同名のイ・オクソン(1927年生まれ)
大邱出身、15歳頃慰安婦になり、中国へ連行され、2000年韓国へ帰国。
音楽家として過ごし、ドキュメンタリー映画「沈黙」の主演となったこともある。

 カン・インチュル(1928年生まれ)
14歳で中国へ連れていかれ慰安婦になり、2000年以降韓国へ帰国。
他の二人同様の理由でナノムの家に居住。
認知症になったが元気。


2)ナノムの家のプロジェクト

・国内外からの訪問・交流。
コロナ発生以降は、訪問客は途絶えている。
ハルモニたちの経験談を聞き、取り留めない会話をしていた。


・ボランティア活動
主に国内の人たちに参加してもらい、ボランティア活動をしてもらっている。
ハルモニと外出、ご飯を一緒に食べたり、社会との交流を保っている。


・学術会議の開催
国内外の人たちに声をかけて慰安婦問題についての学術会議を行なっている。
積極的に開催していたが、以前の運営人はそんな気概はなかった。


・歴史と人権ワークショップ
日韓との関係を考えようとしていた。
コロナで昨年は何もできなかったので、今年はオンライン企画を考えている。


・国内外の企画展示
「ハルモニの明日」という企画展示を、ナヌムの家の外で行なっている。
韓国内は当然だが、ドイツ・ベルリンで開催された。


3)第1歴史館の紹介
入口と出口にレリーフがある。
入り口には日本の帝国主義に人生をダメにされた「恨」、出口には家族をもてた結婚や「夢」を表現。


<第1展示室>

・慰安婦とは?
「従軍」慰安婦の”従軍”とは自らついていったのではなく、連行された人。
自らついていったのではなく、強制的に連行された人を韓国では「日本軍」慰安婦としている。
日本軍の性奴隷にされたのが的確な表現ではないかということで、「日本軍性奴隷」という呼び方をしている。


・時代状況と慰安所制度について
当時、日本によって統治された韓国から中国侵略の際に連行されたので、特に韓国女性が多かった。
進軍先で日本軍によるレイプ、虐殺、強盗が多発。民間が運営する娼館もあったが。
そのため、日本軍の規律を保つために考案し、設置・運営・管理したため、日本軍が主体的に慰安所を運営していたという方が正確。
日本の学者による資料調査によって、明白。


・どんな女性たちが慰安婦となったか
日本女性はセックスワーカーとして日本軍に連れていかれ、人数が足りなくなったので、日本軍の植民地支配下にあった台湾や韓国で連行された人が多かった。
日本が朝鮮に持ち込んだ公娼制度を持ち込み、日本の植民地支配によって「慰安婦」は生み出された。


自ら望んで連行された人はいない。
様々な事情が重なってセックスワーカーとして従事させられた。
それでも足りなくなったので、一般の女性が騙され就業詐欺で連行されて、日本軍の慰安婦とされた。
時代の戦況によって生まれたもの。

ビルマ、中国などで日本軍の官憲が残した資料、聞き取り調査のインタビュー資料などから検証し、当時の女性たちがどういう状況だったかが分かっている。


<第2展示室>
慰安所での生活や慰安所の運営形態について。


・wamが製作した「日本軍慰安所マップ」を掲示。
黄色い線が囲んだのが、第日本帝国が侵略・占領した範図。
赤い点が慰安所があったところ、黄色い点が公文書によって確認された慰安所あったところ、
白抜きの点は軍関係者により確認された話した基地、緑の点が現地の人や目撃証言によって確認された慰安所、これらから軍の基地があったところにはほぼ全てにあったことがわかる。


・公文書の一つも掲示。
軍医が行った性病検査の結果を通知するものには名前が削除され、年齢で記載されている。
慰安所の運営に軍が関与していたことを証明する文書となる。


・軍が作った兵隊向けの現地地図に、慰安所は狭い範囲に5つあるなどわかる。


・フィリピンの慰安所では、散歩の範囲を決められ、軍に監視・軟禁状態にあり、兵隊の管理されていた。


・中国では、慰安婦の名札が書かれた書類に「皇軍万歳」とあり、慰安婦は天皇からのご褒美と考えられる文言がある。


・沖縄にも慰安所があり、沖縄戦があったので、当時中国大陸にいた軍人も増えたので、150箇所も慰安所があったと確認されている。
ペ・ポンギさんも沖縄の慰安所に連行され、1972年沖縄返還された時、韓国に帰れず、慰安婦として名乗り出た。
作家・川田さんの「赤瓦の家」にペ・ポンギさんとの交流が詳細に書かれている。


<第3展示室>
地下にある、体験の場。

板張りの慰安所を再現。ベッドや洗面器などがあり、ナヌムの家のハルモニたちの証言をもとに作られた。女性の証言によると、部屋の洗面所で自分の性器を洗浄する。
軍の紙幣・軍票で支払いしたらしいが、慰安所にいても支払いされたことがないという証言がある。解放された後、軍票は戦争が終わったら価値が0になり、紙幣として活用できず彼女たちは帰国できなかった。
また、慰安所にいたみんなが帰国できたわけではなく、解放前に命を落とした数もかなりあったらしい。

ビデオも展示、放映中。


<第4展示室>
戦後の慰安婦問題について展示。アジア各地の慰安婦について紹介。韓国の芸術家や作家が作ったものも展示。


・1991年8月、韓国で初めて金学順が証言したことによって日本軍慰安婦問題がスタートした。


・ビデオ視聴「証言」放映中。
「将来二度と同じことが起こってはいけません。」
慰安婦問題の強制性の有無が問題とされるが、慰安所内でも軍人から強制性が働いていたこともテーマにしてほしい。


・1992年から水曜集会が始まった。
7つの要求を掲げて、生存者と支援者(挺対協)が集会を始めた。
1. 日本政府は日本軍「慰安婦」強制連行の事実を認めよ
2. これに対して公式謝罪をせよ
3. 蛮行の全貌を明らかにせよ
4. 犠牲者たちのために慰霊碑を建てよ
5. 生存者や遺族に対し賠償せよ
6. こうした歴史が繰り返されないよう歴史教育の現場で教え続けよ
7. 責任者を処罰せよ


安倍晋三もお詫びの言葉を述べているが、重要なのは、1と2がセットでないといけない。
しかし、強制性はないと、これまでの政治家は謝罪のようなコメントをしている。
日本政府はお詫びの姿勢を見せながら、強制性をずっと否定している。
この現状を、生存者は見ているから、強制性を否定せずに謝罪してほしいと言っている。


<第5展示室>
90年代以降の慰安婦の行動を紹介。


・河野洋平による「河野談話」を、その息子河野太郎は否定的な発言。
「河野談話」とは、「強制的な状況下、本人たちの意思に反して行われた、軍の関与・官憲の関与を認める」としたもの。


・裁判闘争
2000年、加害の側の軍人たちの証言も重要となった「女性国際戦犯法廷」が開廷された。
「女性国際戦犯法廷」では、天皇含む国家・戦争指導者を有罪とした民間法廷。
法廷に参加した国際社会(7)は「日本軍慰安婦関連決議案」を日本以外がすべて採択している。
しかし、日本国内の地方議会は64すべてが慰安婦を承認しろと採択している。
それでも日本国家は採択せず、歴史修正主義が蔓延している。


4)第2歴史館の紹介
・「亡くなった女性たちとの出会いの場」パネル
ハルモニたちの絵画が展示されている。
心理療法の一環で絵画教室などを開いたが、読み書きできるように同時期に開いたハングル教室よりも絵画教室の方が好きだったらしい。


・追悼公園は亡くなったハルモニたちの墓跡。


●2021年1月8日の判決について
・2021年1月8日、ソウル中央地裁で人権重視でした判決が下された。
日本の言い分は、国際慣習法に則り国家免除があるので、この判決は無効という考え。
つまり、”被害を受けた国は、加害国は裁けない”国家免除が有効なので、今回の判決は無効と対応している。

これに対し、「反日ではなく、ハルモニたち個人の人権を重視した判決だから、国家免除は関係ない」と地裁は判決で言っている。

国家免除は絶対的なものではなく、人権侵害であれば、国家免除は関係ないはず。

2005年、人権被害を受けた人たちに対して事実認定や公式謝罪について、どう動けばいいのかと作られたガイドラインが作られた。

現在、追慕の行為についても妨害している日本政府の姿勢がある。


以上